9月28日

目が覚めたら7時半刻すぎたころ。開けて寝ていた窓から微かな金木犀の薫りが漂っている。曇り空と高い湿度は台風の到来を孕んでいるが、ぼくはどうやら昨日からもつ鍋が食べたい欲望に弄ばれて、今朝は鰹節ご飯を食べて、番茶を煮だしている間中ずっと、新鮮な近江牛のもつを手にいれることしか考えていない。

 

師匠は、パッケージ裏の成分表示だけではなく、そのものがどのようにして作られているのか見なければ、真に判断はできないという。とどのつまり、いいものは大量に作れないと。

 

でだ、近江に住んでいるのだから近江牛のもつを探している。とりあえずはネットで。なにかで、近江牛なのにサシで勝負せず、国産の餌を牛に合わせて配合して育てている方がおられるといのを見たのを思い出した。で、調べれば、木下牧場であった。そのお肉をいただけるお店を探していると、どうやら販売はなさそうだったので、もつは諦めたけれど、そのお肉をお店でいただきたいとおもって、ネットの海をサーフしていると、なんと、師匠のおすすめの店とバッチング。やはり侮れぬ、師匠。Googleマップに星をつけて、本日のネットサーフを終える。

 

結局、米プラザの冷凍もつを購入した。もつ鍋支度。ぼくはずぶの素人家庭料理人であって、なんの料理の経験もないのだから、レシピに従う。型を真似る。ぼくの料理の先生は、有元葉子先生と、土楽窯の福森道歩先生である。もちろん勝手に。本日は福森先生の鍋の本からもつ鍋レシピで。豆板醤とコチュジャンが聞いてうまい!

 

世の中では、真に全体を俯瞰することはできない。結局のところ我々ひとりひとりが得ている情報は部分である。なら情報を運ぶメディアの特性を理解していないとヤバイ。(メディアは乗り物です。)テレビはタダで大勢に一斉にリーチできるが、枠があるので権威的で、情報はカナリ精製されている。ネットの情報はいつも氾濫していながら、近眼思考に陥りやすい。それしか見ていない人にとって(自分の見たいものを見ているわけだから、気持ちいい)は、世界のヒトはみなそう考えているという落とし穴に落ちがちである。ネットの世界とゲンジツは全く違う。

 

昼前にオヤジとおかんが買い物から帰ってきた。昼で明るいのにオヤジは電気をつけテレビのチャンネルを回す。オカンはせっせと家事をする。ぼくは縁側で外光を浴びながら、松岡正剛『知の編集工学』を読む。

 

師匠より 「最後は、暗くなってベースに戻り、テレビを見たりウェブを見なければ、有り余る豊かな時間を過ごす事ができる。この時、コンピュータをまったく触らないわけではなく、むしろ原稿を書いたり、写真を現像したり、映像を編集するようなことは頻繁に行うし、かなり本も読む。また、ずっと家にいるワケでもなく、月夜に散歩に出かけたり、散歩しながら友人とバカ話をする日もあるが、いわゆる会食や飲みの類いには滅多に行かない。」

 

情報と距離をとると、濃密な時間が生まれる。そのなかにいるときに、一切の不安がないならそれだけで幸せハッピーなのだ。 https://youtu.be/F-tpCeftyxg