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TOSHI KIDA
日々の記録


4月21日

熊本城の石垣の話をする。どうやら大津の穴太衆が関わっているようだ。穴太衆は石垣職人集団で、大阪城からなにから当時のめぼしい城の石垣はほとんどが彼らによるものだった。独特の、あらい石のつき方でかなり丈夫なものをつくった。

 

それで、彼らの技術は、口伝だったようだ。というのも、こればっかりは、紙に書いて説明することができない。

 

バックミンスター・フラーは言った。関連する仕事場や工場でしばらく働いて、「図面化できないノウハウ」や「記号化されない情報系」を、道具の使い方を通じてその達人や職人、そして、彼らがいる環境から直接学ばなければならない。

 

とまあ、最近つくづく図面化できないノウハウに対峙しているわけです。そこを身に付けたら、アイデア勝負だとおもっている。

 

レヴィ・ストロースのいうブリコラージュであり、村上春樹のいう「イマジネーションとは有効に組み合わされた脈略のない記憶」であり、松岡正剛のいう「思考や表現の本質はアナロジーであり、連想である」を信じることができれば、怖いものはない。

 

ということは、人生は、あるいは、目に見えないものを信じるには、あらかじめ設計図を書いて、その通りに進めていくものではなくて、なにに使えるかわからないものを収集して、そのときどきでそれらをうまく組み合わせて作っていくものだとおもうことなんじゃないだろうか。

 

そのなにに使えるかわからないものは、自分の好きなものだったり、興味のあるものだったりする。

 

そうそう、本を読めば読むほど、見えないものを信じることができるようになってきたし、ひととのはなすことが楽しくなってきたし、どこかへ出かけるのも楽しくなってきた。

4月19日

誕生日です。福岡にいるナイトーが贈ってくれた日本酒をちびちび、ソファに座って、静かに飲む。それから、部屋の窓を開け、ベランダに出る。手すりに持たれて、息を大きく吸い込む。春の夜の匂いがたまらなく好きだ。母に聞いたところ、桜が満開の夜に生まれたそうです。地元の祭りの前夜祭のあと、静まり返った夜に。

4月18日

昨夜、雷がなり、雨が窓を叩きつける。朝にはすっかりやんでいた。さよなら春の日。

松岡正剛の多読術を読む。前に読んだのは、本を読みはじめる(もともとこれっぽっちも本は読まなかったのに)前のこと、2010年ごろ。それから今まで、いろいろ本を読んできた。改めて、正剛さんの本を読むと、体験からの考察がいかに大事かがわかる。で、正剛さんが好きなのは、読書に対して(あるいはものの見方)、ぼくの好きな感覚と正剛さんが好きな感覚が似ているとおもってしまったから。

「思考や表現の本質はアナロジーであり、連想である」「ぼくの元気が出てくる源泉や領域は、(中略)必ずや曖昧な部分やきわど領域や余分なところだと確信している」と聞いて、やっぱりなと。

ぼくは結局言葉にできない、あるいは、はっきりとわからない、曖昧なもの、未知なものが好きなのだ。ひととのファーストミーティングや、はじめてマニラに行ったときのゾクゾク感、森の中の空気が変わる瞬間、旅にでる前夜のあの感じがたまらなく好きなのだろう。好きな本の小山田咲子「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」というあの感じ!

4月17日

小利口になるな。という言葉を最近知った。中後半端に頭が良くて、先のことを考えてしまうひと、という意味だ。

 

ブリコラージュという言葉を知った。(こういう感覚はあったけれど、自分の中で言語化できていなかった)あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける、という意味だ。

 

1から100まで、足していくと、5050になる。これを1から順番に足していくと、かなり時間がかかる。考え方を変えてみると、1と99、2と98、3と97・・・47と53、48と52、49と51のように組み替えると、100が49個できる。そこに100と50を加える。

 

同じことやもの、場所を見て、違った見方をすること。

4月16日

前から気になっていた、松岡正剛と水曜日のカンパネラのコムアイの対談をテレビで見た。なぜ見たかったのかというと、松岡正剛が注目しているからだった。

 

知の巨人と呼ばれる松岡氏(だって千夜千冊という修行のようなことをしたり)が、50も離れた女の子に興味を示すことに、僕は興味を示した。

 

僕がよくやるのだけど、陶器市に行くと、センスの良さそうなひとをまず見つける。そのひとがどんなものを買うのかを見ている。センスはセンスのあるひとから学べるからだ。

 

まあそんなこんなで、1時間の番組はあっという間に終わった。コムアイはわかっている。わかった上で、グレーゾーンをあるいは、疑問を問いかけている。真面目と楽しいが共存できることを。

 

で、エビデンスを追いかけてばっかりいると、がんじがらめになって動けなくなってしまう。

小利口になるな、か。これだな。Stay foolish, stay hungryだな。

4月15日

誰かが、あれってこうらしいといった。もうひとりが、ようそんなこと知ってるなといった。が、そのことは、そのひとの経験じゃなくて、テレビでいっていたことだった。いろいろ聞いていて、最後に、結局、「みんなを代表していっているみたいやけど、そんなことはどうでもよくて、あなたはどうおもってるの?」と聞いたら、「知らん」と。

 

テレビが善いとか悪いとかじゃなくて、僕は、僕は、あなた自身の体感や体験から生まれる独自の偏った考えが好きだ。そして、考え抜いた末に、なんでもいいやってなってるひとが好きだ。とどのつまり、そのひとの体験や体感をいちばんに伝えるべきだ。

4月14日

引き続き、レヴィ・ストロースのかな悲しき熱帯を読んでいる。いままでおもっていたことが、言葉にできないとか、僕だけかなとおもっていること、(そういう感覚って、普段の会話の話しってやらない)が、やっぱりそう感じているひともいるとわかって安堵することがある。ブリコラージュなんてまさにそう。これもひとつの本の醍醐味です。

4月13日

レヴィ・ストロースの悲しき熱帯の続きを読む。ブリコラージュがどうやら僕は気になっている。そもそも、悲しき熱帯は、時系列じゃないし、ストロースの自叙伝のようであり、それを装った民俗記で、ブリコラージュなのだろう。

 

 

言葉を声に出すとき、正直でありたい。そのずっと前の言葉が体の中にあるときから、正直でありたい。些細な言葉でさえ、正直に言うことを貫きたい。

 

法隆寺の宮大工だった西岡常一さんは、木の癖をよめと言った。たとえば、ある木が山の北側にあったとする。その木を切り、運び出して、柱を挽く。そうしてできた柱は家の北側の柱として使うそうだ。そのように一軒の家を建てるときに、その場所にあった素材を丁寧に選ぶ。そういうふうに人と人との関係を築いていきたい。その基礎となるのは、常識より良識だとおもう。

4月12日

レヴィ・ストロースの悲しき熱帯を読む。これは文化人類学の古典的な名著だが。それだけではない。ブリコラージュ的思考に興味を抱き、生き生きとした回顧録にとどまらない本著にわくわくがとまらない。あとは松岡正剛さんの千夜千冊に任せて続きを読む。

 

木を切るのに、思想は必要ないのだろうか。思想というと、大げさだから、考え方と言い直す。ただ木を切るのと、行動の本質に従って、木を切るのとでは、同じ行為であっても、全くちがうようにおもえる。それは他のことにもいえるのではないだろうか。普段生活をするのに、おいてさえ、いや、ご飯を食べるのでさえ、そういえるのではないだろうか。なぜそれを食べるのか?

 

さてさて、そんな難しいことは考えずに、満開の夜の桜を見に行こうか、それとも、ストロースを読み進めようか。真面目に楽しく。ときに、バカになろうではないか。

 

4月11日

最近は4月なのに、梅雨のような日々が続いている。朝起きて、チーズケーキを作った。コーヒーを淹れて食べ合わせる。コーヒーに甘い物は合う。最近は花林糖がいい。それから、スペクテイターのホールアースカタログ特集を読み、レヴィ・ストロースの悲しき熱帯を再び読みはじめた。本には読期があると、松岡正剛は言っていて、僕はこれが好きなのだ。本を読むタイミングが違えば、本の印象もまた違うのではないのか。そういえば、以前友達が、フランス人はあまり好きじゃない、だって、初めて会ったフランス人がうっとおしかったから、といっていた。読書や人との出会いにはタイミングがある。それを縁と呼ぶのだろう。然るべきときに、然るべきことを。