TOSHI KIDA
ウツロイ
色は匂へど散りぬるを

Everyday with playlists


6月19日

梅雨が続く。サン・テグジュベリ『星の王子さま』を読む。

 

特別な花を一本持っていたから幸せだとおもっていた星の王子様がそうじゃないことに気づいたとき、キツネと出会う。王子様は遊ぼうと尋ねると、キツネは「懐いていないから、遊べない」と答える。王子様は「懐く」ってどういう意味と聞く。キツネは「それは絆を作るってこと」と答えると、王子様は気づく。特別な花を一本持っていたから幸せだったのではなく、その花を大事に世話していたから幸せだったのだ。王子様は「懐くには何をすればいいの」と聞く。キツネは時間をかけることを教える。

 

なつく。会ってすぐ仲良くなることはできないけれど、少しずつ時間をかけていくうちに、ひとにも、花にも、場所でもなんにでも、懐ける。そうすると、見えなかったものが見えてきたりする。特別なものだから好きなのではなく、ぼくがあなたが懐いているから好きなのだ。そんな簡単で当たり前だけど見えにくいことを、サン・テグジュベリのキツネは教えてくれた。そんな大切なことを教えてくれる大人は少ない。そういう本をうまく勧めていきたいな。サン・テグジュベリ『星の王子さま』はおすすめ。

6月18日

朝、地震で飛び起きた。震源地は大阪北部だった。ここは震度4。数秒間揺れた。いまは、なにもなかったように、夕焼けの静かな夜である。

 

ヒトの力ではどうしょうもない自然のパワーを目の当たりにしたとき、体は敏感にそれを感じ、考え方に影響を及ぼす。そのパワーをまじかに感じれば感じるほど、敏感に。日本列島はずっと、地震が絶え間なく起こり、火山は活動し続け、一年で季節は大きく変化してきた。その自然によって、考え方や生活様式は形成されてきた。ずっと木と土と草でできた家に住んできたわれわれにとって、形あるものが壊れる、というのは日常だった。だから、壊れないようにものを作るのではなく、壊れたあとどうするのかのほうが重要だった。それとともに、考え方も養われてきた。自然のパワーの脅威を感じたとき、思考は野生へと向かう。外圧によって、危機を察知したひとは進化を促される。アフリカから脱出したかつての我々の祖先のように。

 

確固たるものはあるようでない、あるいは、変わっていくことが唯一確固たるものなのだろう。ならば、時折起こる、自然の脅威はさながらリマインダーのようであり、それはBob Dylanが問いかける、How does it feel?のようだ。

6月17日

何かを作るのにも、それを伝えるにも、共通の大事なものがあって、それが編集だと思う。編集は学ばなくてはわからないことがおおい。作るもののコンセプトや、それを現代にあてはめること、屋号のネーミングや、ロゴの作成にも、やることなすことすべてに編集がある。

 

わからない言葉をわかりやすく言い換えてくれることがいいことだとはおもわない。ある現象を言葉で説明するとしよう。そのとき、特定の言葉以外で説明できないのに、平易な言葉に置き換えたとき、置き換えによって消えてしまう言葉の意味やイメージの損失はかなり大きい。けれど、その言葉の意味をわかっていない側からすると、わかりやすく言ってくれないとわからないとなる。定食屋の客が自らお客様は神様だと言うようなものだ。これは考え方によって解決できるとおもっている。そもそもぼくもあいつ説明下手くそやねんとか、意味のわからない言葉をなに使っとんねんとおもっていたのだけど、多読をしはじめてあるとき気づいた。いい著書や著作は読者のレベルを引き上げる。これわからへんの?じゃあ修行してこい、と。そのことに気づいたとき、ぼくははっとした。

 

世の中の基本構造は、いまでも、いくら仲の良い友人であろうが家族であろうが、心の中にあることはわからないとうことだ。もっとヒトの気持ちを考えて、と言われたところで、ひとの気持ちを完璧に代弁できる世界にぼくたちは住んでいない。だから、言葉を使ってコミュニケーションをとる。思っていることを伝える。あるできごとを言葉にすることで、イメージを相手に伝える。その言葉の中には、その意味とイメージが含まれている。言葉の中に、日本語の中に飛び込むのが楽しいのは、イメージと文字が繋がっているから。表音文字サイコウ。

 

名前をつけることには、相当のパワーが込められてきた。起こったことや現象、木の種類や魚の名前にも、雨や風、地名や人名にも。それなのに、そのことを軽視なんてできやしない。

 

ひさしぶりに、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を読む。最後にこうしめられている。「私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。 」

6月16日

家康が江戸をはじめたのも、ベルリンの壁が崩壊したのも、醤油が作られたのも、ナポレオンの遠征も、神仏習合も、仏教がインドを離れ中国で花開いたのも、日本で花見が流行ったのも、紀貫之がひらがなとカタカナで土佐日記を晩年に綴ったのも、あらゆることには、前があって、後ろがある。

 

ぼくたちは、何年に誰が何をやったかについては詳しいけど、その出来事の前後に起こったこと、なぜそれが、誰によって(その人の背景も)、どのように起こったのかについて全くわかっていない。ある出来事に、引っ付いてくることにこそ、方法は隠れていて、それを感じてこそ、歴史から学べるのではないだろうか。

 

物語における展開や順番はとても大切だ。なにをやるかは大事なのだけど、それとおなじくらい、その順番も考えたい。ジョゼフ・キャンベルやジョージ・ルーカスや過去の語り部に倣って。