TOSHI KIDA
ウツロイ
色は匂へど散りぬるを


10月18日

ひさしぶりに晴れ間をみる。朝は穏やかで、まさに秋晴れ。空き家の庭の木を切る。ほったらかしになった木が屋根を覆う。その空き屋の家主は亡くなられていて、遠くに住む甥(といってもおじさん)の依頼によるものだった。なんだかかものかなしい。家の庭の木を切るときの様式を知りたいと思った。こうやって昔のものがなくなっていく一方で新しいものはどんどん生まれていく。増えることだけがいいのではない。昔のことが残るだけもよくはないが、このあたりなにかいい決着はないのだろうか。たとえば、宮本常一の『忘れられた日本人』のように、表立った、りっぱに二足歩行できるようなものではなく、口でしか伝わらない、歴史の流れからみると、それがどうしたとおもわれるようちっぽけな潮流だけど、実際にあった事象を拾い上げれるようななにかが。いまのところ、新しい視点というのは師匠のいうように「時」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

10月17日

長い雨がやんだ。

なにかと理由をつけたり、論理的にものごとを考えた結果、正しいから、行動を起こすということが多くなっていて、なんだか息苦しい。「A=B B=C A=C」のように、それが唯一の正解で、正しいからやっていますなんて、もちろんそう考えたほうがよい場面もあるが、少々そちらに偏りすぎている。「A=BとB=C」の間に、栞を挟んで、別の読みかけの本の続きを読むことだってある。意味が分からない?そうです、意味が分からないことに意味があることだってありうる。

論理的な考えと、何の脈絡もないことの連打による考えは相反するものではない。ぼくが勝手に対決させていただけだ。前者の考えをして、後者を駆逐してしまう弊害は計り知れない。神話や物語や話を必要としなくなった現代のように。

なにがいいたいかというと、レイモンド・カーヴァー『大聖堂』の「ささやかだけれど、役に立つこと」には、論理なんて感じないけれど、あのじわーっとくる読後感があって、それはものすごく大切な感覚だということ。秋の夜の冷たい雨もあいまって。


Nina simone / 22nd century