TOSHI KIDA
ウツとウツツとウツロイ
色は匂へど散りぬるを


7月21日

自分を自分で笑いながら見下すなんてだめだ。冗談でも絶対に。絶対に。なにと比べて、そんなに自分を見下すのだ。もっとやるべきことがあるだろ。

 

失敗なんて当たり前だ。やったことがないことなら、できなくて当たり前だ。子どもの頃の自転車のことを思い出せ。自転車に乗りたい一心でそこだけを見ていた。転けたり、失敗したり、周りの目なんかに見向きもしなかった。

 

宮本常一「民族学の旅」より。

 

「地方の人たちが胸を張って中央の人たちと対等に話ができるようになるためにはまず地方の人たちが自分の力を高め、それを評価する力を持たねばならぬ。」

 

「人びとがもっとかしこくならなければいけないと考えた。それぞれの土地に生きている人たちはみなそれぞれにすぐれた生き方をしているが、横へのひろがりがとぼしい。比較と選択する技術にかけている。それにはみんなが文字を読み、文字を通して未見の世界を知り、そこで何がおこなわれているか、われわれはそこから何を学ばねばならぬかを考えねばならぬ。かしこくなるということは物を考える力を持つことであると思う。物を考えるには考えるための材料がなければならぬ。それは周囲にあるものをよく理解し、同時に、もっと広い世界を知らなければならぬ。そしてまず自分の周囲をどのようにするかをお互いに考えるようにしなければならない。そして自分の住む社会の中にリーダーを見出していき、その人を大切にするような社会を作っていくことではないかと思った。どのような村にも浦にもかならずすぐれた人がいる。しかし自分たちの周囲にいる者に対してはそのすぐれた点よりも若干の欠点の方が目についてその人を尊重しないことが多い。」

7月20日

少し前までずっともらうことばかり考えていた。いまは自分からpay forwardしようとおもっている。たとえば、本屋をぶらぶらしていて、あっ、この本あのひとにぴったりだとおもったら手にとってそのひとに持っていくような感じで。そうやって、自分から波を立ててみると、おもしろいように、波が返ってくるし、息を吐いたぶんだけ、空気を吸えるようになる。

 

京大の山極さんのゴリラの話を聞く。ヒトとゴリラが一番違うのは、仲間の不在を受け入れられること。チンパンジーやゴリラは声が聞こえないところに出るとよそ者になってしまう。ヒトはどこかにしばらく行ってかえってきても、家族は家族だ。それを受け入れられるのがヒトだという。それはなぜか。そいつがいなくてもそいつがいる形がある。食器や布団に記憶が、面影がのこっているのだ。ヒトは記憶を外に出した。ヒトには想像力がある。

 

少し、鶴見和子「南方熊楠」を読む。数ヶ月前に読んでいたときは、すこし読みづらいとおもったが、いまはすらすら読める。やはり本にもタイミングや旬はあるし、シチュエーションや自分の状態が深く関わっていることを実感する。機を大切にしたい。

 

それに影響されてか、はたまた、いまのぼくの興味のあることの共通点が微生物だからか、「土と微生物」という本が猛烈に読みたい(今月は我慢して来月には)。「植物の根と、人の内臓は、豊かな微生物生態圏の中で、同じ働き方をしている。」と内容紹介に書かれている。微生物のことを理解するとなにかありそうだ。

 

とおもっていたら、あれなんだっけと、なにかひらめく。松岡正剛「日本という方法」の「ちょっとしたことが季節や風景を変化させている。そこを見失えば、さまざまな機会を逸することが多くなる。それが日本です。」とある。

 

さて、夏がやってきました。