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TOSHI KIDA
日々の記録


3月23日

朝スマホでAmazonに保存瓶をふたつ注文する。家に帰宅したら、もう届いていた。僕はほとんどの本や雑貨などをAmazonで購入している。それは、僕の欲しい本が近所の書店には間違いなくないからだ。行くまでもなくないのを知っているので、さいしょから、あるだろうAmazonで注文する。翌日には届く。ということは、リアルショップは、これに対抗しなければいけない。安売り競争では勝てないし、翌日配送なのでAmazonでいい。Amazonにできないことといえば、足を運んでもらうこと、そこでしかできないこと、それは間違いなく体験なんだろうな。帰宅後、保存瓶が届いたので、キリンジ「グッデイグッバイ」を聴きながら、ザワークラウトを仕込んだ。

 

 

3月22日

今日も木を切る。ただ木を切るのが、なんともいえない。名目はいろいろあるがなんともいえない。やりきれないとおもっている。切るだけでなく、誰かの役に立つようにしたい。なぜなら、肌感覚であまりやっている人がいないから。人を介して小さくやればできそうだ。この業界はCtoCを見捨てているようにおもう。業界の人は技術はあっても補助金がないとうまくたちゆかないとおもっているし、業界以外の人は技術習得は困難なようにおもう。動かせあたま。

3月21日

無印で保存瓶をふたつ買う。選ぶポイントは、洗いやすいこと。口がもっとも広く、手が入ること。冷蔵庫のキャベツ半玉はザワークラウトに、信州土産のりんごふたつはりんご酵母にする。

 

そのあと、本屋で、ハーブの育てかたの本と薪の本を読み漁る。が、いつもおもうのは、書店に欲しい本がないから、結局Amazonで買うことになる。それが続いて、最初からAmazonで注文する。Amazonのレコメンド・アルゴリズムの進化に唸る。

 

先日の食事のことについて雑感。すばらしき人はすばらしき人を紹介してくれる。そのときはだいたいプライベートな食事会。田舎では、驚くほどにおいしい食事をいただける場所が少ない。素材はいいものがそろう。結果的に家でもてなす方が良い。

 

パルプ・フィクションのサントラを聞く。チャック・ベリーのYou never can tellのリズムでツイストを踊るユマ・サーマンとジョン・トラボルタのシーンがお気に入り。

3月20日

今日、家庭の食べものは、「はやく、安く、おいしく」あるべきだと聞いて、違和感を感じた。

 

毎日高級なものを食べる必要はなく、丁寧に作られたものを、ゆっくり喋りながらいただくことが、もっとも大切だとおもっている。数年前にフィリピンで出会ったジュンさんからスイスの食事事情を聞いたこと。(ジュンさんはその当時スイスの大学院生だった。)昨日、サイさんの家で食卓を囲むよさを感じたこと。いろんなテーブルで食事をいただいてきて、これがいまの僕にいちばんしっくりくる感覚だ。不良少年を良き大人にさせるのは実はおいしい食事だったりする。土がよくないといい野菜は育たない。

3月19日

朝から買い物。米プラザで米麹を買って、京都に向かう。左京区にあるHELPで、野菜と枇杷茶を買う。最近の買い物は、服が一切なく、食べ物や調理器具が多い。そういえば、誰かが言っていたな、消費より創造を、って。

 

それから、大津のサイさんの家に向かう。サイさんはタローさんのお父さんで画家。一緒に晩御飯をいただいた。そのとき言葉をよく注意された。たとえば、「ぜんぜん」のあとには、否定形は使っちゃダメと。言葉ひとつひとつや話し方を通して、ひとを見ているように感じた。すると、「僕はひとを描くからみればわかっちゃう」と。

 

食べ物の大切さを感じた。やっぱり、人が集まったときには、おいしい食べ物があればいい。ポートランドのチョコレートも、鮒鮨も、菜の花のおひたし、ぶり大根も、全部おいしい。食べ物は人を幸せにする。間違いない。

3月18日

千のプラトーを読んでいる。頭の中がぐちゃぐちゃになっている。南方熊楠がいっていることに似ているようにおもった。もう少しゆっくり読む。

 

そうそう、ヨーグルティアは間違いなく活躍してくれる。玄米を食べる人が行き着くであろう二刀流に、僕はなってしまった。圧力炊飯器と保温器の二台持ち。発酵の幅が広がった。けっきょく僕は、古式と先端の両方からあらゆるものを見たいのだろう。発酵においても。

3月17日

Amazonから千のプラトーが届いた。包装箱を持つとずっしりと重い。重さと内容とが比例する確証はないが、重さからなにかを感じたのは確かだ。おそらくいままで僕が読んだ本のなかで一番重い。ハリーポッターよりも。

 

で、内容を掴むのなら、電子書籍でも、単行本でも同じだ。持つ必要がないのなら、電子書籍のほうがいい。

 

この重さ、から生まれる何か、食べものでいうコンテキスト、は、なにかしら残っていくだろうし、価値を生み出せそうだ。ただ者でないとおもわせること。たとえば、このパンずっしりと重いなのように。

3月16日

60年から70年生の木を切った。手塩にかけて大切に育てられた木だった。枝打ちよし、色よし、木目よし。それを切り捨て間伐した。残念で仕方がないと、一本一本の木を切るまえに、毎回おもった。脈々と続く技術やその応用は大切だ。それ以上に価値観を現代性に合わせることが大事だ。なぜなら、いままでのままだと、大切なものが捨てられることになるから。需要はあるし、価値もある。あるというのは、ゼロよりも少しあるだけで、その価値を最大化することをさぼっているのだ。手入れの行き届いた山は、気持ちいい。失われつつあるもの、誰も見向きもしないからこそ、僕はそこ一泪の望みがあるとおもうのだ。だれとも目的の違う場所にいち早く歩き出せるのなら、ぶらぶら好きなように歩いていける。

 

都会に失われた機能、田舎で忘れられたことを、ほじくりかえしていきたい。フェンスに囲まれ、ブランコや滑り台などの遊具のある機能のない公園から、はっきりとした堺も、遊具もない一見したらただの広い空間のような機能のある公園を、つくりたいとおもった。広い空間にはひとの想像力を喚起させるなにかがあるようにおもう。かつて、人が暗い洞窟の奥にわざわざ絵を描いたようななにかが。教育においてすべきことは、悪いものから守ることと、想像力を喚起させることだとおもう。それには、広い場所、正しい食事、自然の力、現代性が、大事になるとおもっている。

3月15日

スーザン・ソンタグ「反解釈」の「様式について」を読む。「芸術の目的は何か特定のものをはっきりさせることである。」とある。ジョゼフ・キャンベルの「神話の力」に通ずるものがある。それは、イニシエーションで、通過儀礼のことだ。様式、スタイルについては、キャンベルの英雄伝説の雛型がそうなのじゃないだろうか。様式と内容については、ドゥルーズのプラトーやリゾームを読めば、もっとわかる気がする。言葉に引っ張られて、言葉の意味するものにおさまってはいけない。おなかいっぱいで動けなくなるようなものだ。腹八分目がちょうどよい。

3月13日

山のシダを掻き分けながら歩いた。そうこうしているうちに、はっと宝物について思い浮かんだ。

 

宝の地図というのはメタファーなのじゃないの。宝は金銀やダイヤモンドなどの宝石じゃなくて、何かわからないこと(その価値がわかっていないことそのもの)、宝の地図は、その価値がわかるまでのプロセスのことなのじゃないのか。そう考えながら、童話や神話を読むとおもしろそうだ。加えると、宝は現在もある。

 

地方に宝はあるが、宝物だとわかっていないだけ、宝物だとわかるには、知識が必要で、それは、安息の地を離れ修行をし帰還しなければ都会わからない。ジョゼフキャンベルがいうよう。