9月12日

清々しい朝。友人が泊まった日にはいつもよりすこし早く起きた。朝食を用意し、ゆっくりいつもと違う非日常な朝となった。Miles DavisのFramenco Sketchesを聞きながら、昨夜をじわじわ味わう。

 

重機に乗りながら、ラジオをかけていると、秋らしさはもうしばらくお待ちくださいと聞こえてきた。空を見上げると、もうそこには、秋っぽいうろこ雲があって、軽い風がさっと吹いた。山はもう秋である。

 

また、ラジオから「解釈しなければいけない」と、聞こえてきた。はあ、そんなことだから、あらゆることに意味を求め、あらゆる現象には意味があると解釈するように、マインドコントロールされているから、1日のうち、空を見上げて、雲を見て秋っぽいなあと思う余裕がないのだ。解釈は必要であるが、それだけがすべてではない。こういうときにはソンタグの『反解釈』を読むに限る。芸術に自然に、解釈なんて必要ない。ただ感じろと。

 

帰宅後の食卓にて。親父が「タピオカってくだもの?」と言ったから、おかんが「芋のでんぷんや」と言った。親父が「いつからあんの?」と言ったら、おかんが「前からあったで。流行ってんのはインスタ映えや」と言った。ぼくはその人が発する言葉と遣い方を凝視する。話をするというのは、言葉の選択の連続である。その人がある事象を説明するのに、選ばれた言葉が、その人の「らしさ」を作っている。

 

おかんが、「インスタ映え」と言ったとき、少し残念に思ったのは、ステレオタイプの言葉(話題になって、大衆が使う、すぐにポイッて捨てられる言葉)はすぐに覚えるのに、普段遣いの言葉の類語を増やそうとしないことだった。使い捨てされる言葉よりもっと呪詛的な作用のこもった言葉を覚える方が楽しい。