8月16日

10時に友人を最寄駅に迎えに行き、そのまま近くのコメダでもうひとりの友人と待ち合わせる。駐車場はいっぱいで白線で区切られた領域外に車が止まっていたお盆の最中の金曜日の昼前。店内で久しぶりにあった友人と話しはじめる。ひとりはちょくちょく連絡を取り合っているが、もうひとりは2年ぶりくらいに会う。ぼくはブレンドコーヒーを頼み、友人たちはブレンドコーヒーとモーニングセットを頼んだ。ふたりともガッコーのセンセーである。

 

先日の小学校の同窓会でもそうだったが、久しぶりに友人と会うとその変容ぶりに気づく。その変容ぶりというのは、彼らではなく、私自身の変容ぶりである。見た目などの変容ぶりでなく、考え方の変容ぶりである。そして思うのは、結局、いま仲良くしている人たちや、属している社会の影響をもろに受けるということである。その社会がコンクリートのようなら、そこに属するひとは、強い意志がないかぎりは、気づかぬうちに考えも硬くなっているように思ったのは、誰かにメッセージを送ることについて話したときだった。友人のメッセージには具体的な形容詞が付着しすぎたのだ。そんなことせんでも、ひとの想像力や補完能力を信じたらとぼくは言った。いや、ここまで書かへんと誤読すると友人は言った。

 

ぼくはほとんどのひとがスルーする事象に疑問を立てガチである。それをそのまま受け取らずに、なにか言いようのないおかしさを感じたら、ちょっとまてよと立ち止まって振り返る。そんな性質を良しとし、ひとつずつひとつずつ検証し積み重ねてきた。その性質を守るためには、風通しの良さが必要であった。そんなことを考えたとき、自分が立つ場所のことを、自分を内包する社会のことを、もっと深く考えていくべきなのだなとおもった。

 

そんなことを考えながら、アタラクシアは日常にはないのかもしれないと思った。日常にはないのかもしれないが、見当たらないわけではない。おそらくは、匿名の旅人となってある場に訪れたときに、その場がアタラクシアとなりうるのだろう。あるいは、日常にあるけれど隠れていて、それを呼び出さなくてはならない。つまり、見えていないだけなのではないだろうか。

 

われわれには「どこへ行ってきたの?」と聞かれて、「いや、ちょっとね」と答えられる場所が断固として必要なのです。っと松岡正剛さん。

 

夕方、カレーを作りながら、コムアイのインタビューをYoutubeで見て、アイスコーヒーを淹れて、松岡正剛『知の編集工学』を読む。明日は早いから、早めに用意して早めに寝るとしようか。