8月15日

からっぽである。僕はいまからっぽである。昨夜20時から明朝5時まで郡上八幡にて徹夜でおどった末、体に溜まっていたエネルギーを使い果たした。文脈で語り難いとおもわれるこの間の出来事を、メモとして書き記しておく。言葉にするものの、実感との距離は至極離れすぎている。それでも言葉にしようとおもうのは、その実感を的確に表現するためではなく、記憶装置としての言葉を読んだときに、そのときの感覚を思い出すためである。

 

・空にはほぼ満月が雲間から覗く。

 

・時計を外し、スマホを持参せず(故障中のため)、下駄を履いて、会場へ向かう。外れの駐車場から会場へ向かう途中の空気はしんと静まり返っている。ひとはまばらで、下駄の音が遠くでかすかに聞こえる。エネルギーは今日の中心へ集まっている。

 

・踊っているうちに気づかぬ間に、4時になっていた(踊りの警備のおじさんが言った声が聞こえてきた)。20時から踊りはじめ、8時間が経っていた。一瞬だった。

 

・この祭りのピークというか旬はおどりのおわる数時間前頃。踊りがはじまる20時ごろは観光客や地元の血気盛んな若者がたむろしている。2時ごろになると場の空気は突然、変質し本領を見せはじめた。(実際には時計を外していったので、時間感覚は曖昧)

 

・魑魅魍魎

 

・特定の条件(狂気じみた)、特定の日時(満月とか)に生まれる場に集まるのは、やはり、それに敏感なアーティストである。やはりコムアイだった、アオイヤマダだった。

 

・盂蘭盆会、満月、死者とダンスパーティー、ここは現実か否か。日常から切り離された場(いや日常と同じ場所に別次元)が生まれるのは、ここ日本では月の暦を見るべきで、さらに言うなら、その期間の中、ある一瞬の出来事の中に旬がある。それを体験するには、そのままそのなかに飛び込んでいかなくてはいけない。そのためには、タイミングと道具が大事である。郡上おどりでは、下駄は必須、徹夜おどりを最初からおどり、身も心も疲れたであろう、丑寅の刻になって、はいることができるのではないだろうか。加えるなら、おどりも講習を受けた方がなおいい。道具はイニシエーションのための、祈祷のための、祭具だ。異次元へ移動するためのタイムマシーンだ。

 

・丑寅の刻。一曲が終わる。踊っていると前の数人が休憩のため列から抜けた。そこに仕立てられた着物を着た二人の女性がすっと軽く会釈をして入ってきた。20代真ん中くらいの綺麗なお嬢さんと、その母か祖母(お守り)であった。白地に緑と赤の花柄の着物であった。次の曲の拍子が聞こえた瞬間、ふたりは間髪入れず、おどりはじめの機会を逃すまいと姿勢を整えた。タイミングを間違うことなく、祭囃子の奏でる拍子に合わせて、無駄の無い所作を繰り返す姿に心を奪われた。長い間ふたりに引っ張られるようについていった。気づいたらふたりはいなくなっていた。現実か夢か、あの世かこの世か、マレビトか祖霊か。世界がぐちゃぐちゃになっていた。彼女たちの姿はいまはぼくの脳裏に焼き付いている。

 

・地元の子どもたちやおどりを受け継いでいるひとたちの、拍子が流れはじめた瞬間に、曲を把握し、踊りの態勢へとすばやく移り変わる所作が本当に美しい。旅人がフラッと立ち寄っておどりに参加できるのが郡上おどりの魅力だろうが、美しさは彼らの所作の中にあるのは間違いない。

 

・祭りの終りを告げるのが、まつさか。手を合わせ姿勢を屈めながら水平に伸ばす。もういちど手を合わせ、頭の位置から左下に向けて、両手で空気を切る。

 

・後口上が終わり、空を見上げるとあたりは明るくなりはじめていた。おどりおえたひとたちはスマホで一斉に写真を撮りはじめた。屋台の側にはゴミが溢れていた。下駄の鼻緒が切れるように、異質の場はもうそこにはなかった。

 

・踊りおえた帰り道、ぼくはからっぽであった。語彙力の無さからくる言葉では表現できない感覚ではなく、世界を分けるための言葉では表現できない感覚であった。そのような感覚を、あるいはメディテーションや瞑想と呼ぶのかもしれないが、どちらにせよ、この感覚をたまに味わうことが楽しく生きるための源泉となりえようとおもったのである。この息苦しい監視社会のなかで。

 

・常にあるのではなく、特定の条件を満たしたときにのみに出現する場をつくりたい。

 

夜、寝る前に、じわりとやってくる、寂びの感覚を一緒くたにして、Naboで手に入れた白洲正子『なんでもないもの』を読んでいる。

 

現代は独創ばやりの世の中だが、現在を支えているのが過去ならば、先ず古く美しい形をつかまねば、新しいものが見える道理はない。こんな自明のことを皆忘れている。忘れているのではなく、ふり返るのが恐ろしいらしい。が、伝統をしょって生きて行く勇気のないものに、何で新しいものを生み出す力が与えられよう。人間は、牝鷄みたいに、気楽に卵を産み落とすわけには行かないのだ。