6月18日

「有事の際には、賢い日本人は正しい行動をする」と親父が言った。「たとえば、戦争が起こさないようにするために個人でどう行動をすべきか」と問う。「いまたとえば戦争のことを考えないのは、そういう状況ではないから」だと言う。そうやって、いつの間にか、何も考えないでいた大衆は気づかぬ間に、昭和の大戦に巻き込まれたのではないだろうか。「正しいかどうかは国が決める」と親父は言う。これは無思考ではないだろうか。前近代的社会だと思い知らされる局面がこうして、身近にあった。「好きな色は何色か」問う。「そんなの考えたことない」と言う。いま、このひとの世界ではまだ有事の際ではないし、その兆候もないし、危機感もない。もしかすると、これはチャンスなのかもしれない。なぜって、彼が言うことが正しければ、賢い日本人は有事の際に動き出すのだとしたら、いま、誰もやっていないことをフライングで始めれば、何かが起こった時に、あらゆる面でリードしているだろうとおもうから。Release yourself! いま、日本で個人ができることは、モニターの画面ではなく、現実を見ることだ。自分のなかの本当の自分と、しっかり対話することだ。

 

コミュニケーションとは旗を立てることだとおもう。あるひとがビールより日本酒が好きだとわかっているから、お土産に日本酒を買っていくように、関係を築くには、「そういう場合もある」だとか、「それはひとによって違うでしょ」と言う会話は、無慈悲に響く。そんなのわかっている。わかっているから、あなたの好みを聞いているのだ、あなたは何が数寄なのか、聞いているのだ。大衆ではない、「あなた」に聞いているのだ。

 

それなのに、「どんなラーメンが好き」と聞いたのに、「ひとによって違うでしょ」と言われれば、こいつとは仲良くなれないと思ってしまう。そうやってひとは離れていくのだろうか。「ひとによって違うでしょ」って旗立ててなからね。「そんなんめんどくさい」「そうですか!」僕はその場を後にした。

 

今日も引き続き、スーザン・ソンタグ。少し前にも書いたが、『ラディカルな意志のスタイル』にある「沈黙の美学」は、「あらゆる時代がその時代のスピリチュアリティを作り直さなければならない」からはじまる。その文章を引用しているのが、ハフィントンポストの創設者アリアナ・ハフィントン『サード・メトリック』だった。いまの時代の潮流を読み、それに応じたスピリチャリティは誰も教えてくれない。気づいた人が、勝手にこっそりとやるしかないのではないか。

 

「会社づとめに身も心も捧げつくして、結局それでいったいなにになったというのか?できあがったのは、父親は子供のことをろくに知らず、女性は出産を望まなくなり、老人は家族からも国からも見捨てられたと感じている社会。」(ロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』より)

 

その責任を引き継いでいくのが我々世代の宿命のように思われる。Freal Out!