6月17日

スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイル』にある「沈黙の美学」は、「あらゆる時代がその時代のスピリチュアリティを作り直さなければならない」で、はじまる。いまの時代、「なにもしない時間」を持っていると、なにもせずぼーっしていると、自分でダメ人間やと思い込み、他人からは非難される。仮に空き時間ができても、スマホでゲームをしなければいけないし、家に帰ったらテレビで空白に時間を埋めなければいけない。ばかばかしい。(テクノロジーのかげでできた時間を忙しくしてどないすんねん!そんなときには、夕日が沈むのをずっと眺めときゃいいのだ!)

 

そんな世の中では、空白こそが意味を持つ。空白こそが決定的に違いを生む。そうであるなら、たまには窓の外を見てぼーっとするのがいい。そしたら勝手に考え始めるから。だなんて、刈っても刈っても伸び続ける畦の草を刈る間の休憩中に、梅雨の晴れ間の乾いた涼しい風を受けながら、ぼーっとしながら考える。

 

仕事を終えて、加賀の『獅子の郷』という極上の日本酒と、旬の枇杷をもってタローさん家で宅飲み。スージーのwelcome backパーティー。気の合う友人との時間はいい。2歳になったアンちゃんがいい感じ。

 

「最近どうよ?」

「春先に学校通ってておもったんですけど、考え抜いて考え抜いたものは最後まで信じること、価値があるとおもったモノにはちゃんとお金を払うこと、あるいは、敬意を表することを凄く痛感しました」

「タダが一番だめだからね。結局、行くのに困難な場所とか安くない入学金とか、そういうフィルターをくぐってるやつってのは、熱意が違うから、そういうやつらって気持ちいいよね」

 

外のトイレに行ったら、辺りは暗くなっていた。窓の外には満月があった。ジョニ・ミッチェルのJungle Iineを聞きながら帰宅する。