12月22日

0時15分、名古屋駅から出発した夜行バスで東京へ向かう。3列独立シートのA6、到着予定時刻は5時18分。

 

5時15分、東京駅。辺りは暗く寒い。夜明け前の東京駅はまだ動いていないし、人もまばらで、時間の流れはゆったりとしている。スマホがないと迷うなと思いながら、スマホを見ながら迷う。

 

5時58分、銀座線京橋駅から浅草駅。そこからカプセルホテル9hoursで1時間700円のシャワーを浴びる。その前に、浅草駅がふたつあるなんてしらなかった。雷門の前のほうに着いて、もうひとつの方へ歩いていく。途中探し物をして寄ったコンビニの店員はみな流暢な日本語を喋る外国人。

 

6時43分、カプセルホテルについてシャワーを浴びてゆったりする。レセプションの日本人スタッフは当然のように、英語で受付をする。レジではTuneinから、スローなロックが流れていた。このカプセルホテルは無印良品が表現するようなミニマルさであった。

 

7時21分、カプセルホテルの1階のスローなダブの流れるフグレンコーヒーで朝食。僕の東京はいつもフグレンからはじまる。渋谷のフグレンがおおいが今日は浅草。日曜日の7時の店内はゆったり、気持ちがいいい。当然のように店内では英語が飛び交う。こりゃ、僕ももう一度鍛え直さないと。エチオピアのボカッソの浅炒りをエアロプレスで戴く。坂口恭平さんの登場するブルータスの危険な読書を読みながら、熊本に思いを馳せつつ、地元であるいはどこかで、ぼくもこういう風にしたいとぼやっとおもう。旗をあげ、起点となって、変な人を誘い込む本屋とカフェと宿宿を、休日に朝早くから開いているね。フグレンの浅炒りはぼくにとっての東京の朝の味、酸味がたまらない。帰り際にエチオピアのボカッソの豆を買って、200ml91℃ 14g 1分蒸らし30秒抽出のエアロプレスのレシピを聞く。家で真面目にコーヒーを淹れていたら、トウキョウでも話は通じる。ショートヘアーに太めの茶のパンツ、白シャツの女性スタッフがいい感じであった。トウキョウ、シャレオツ。上野駅へ向かう。

 

8時38分、浅草駅からRhyeを聞きながら新宿へ向かう。12時前に豪徳寺近くのイタリアンに集合して、知のアジールに向かう前に腹ごしらえを、刺激的なはじめて会う名前と素性しかしらない仲間と。

 

9時11分、新宿から明治神宮の境内を通って、渋谷駅まで歩く。渋谷は谷だから坂道が多い。人も多い。ごみも多い。少し離れた奥渋谷はいい感じで綺麗だ。

 

12時から予約の豪徳寺駅近くのイタリア料理店に、11時55分に着いて、クラスメートと初顔合わせ。やはりこの学校に来ている人たちとの、会話ってスーパー面白い。これまでに読んだ本や学んだ事象を、別のなにかに見立てたメタファーな会話の連打に、いつもなら昼寝をする時間に、覚醒する。こういうね、新たな出会いってサイコウなのだ。イタリア料理店で食べたラザニアの味を忘れるくらいに、会話はサイコウであった。言葉遣いから見る人柄はだいたい性格である。

 

14時、ぼくが現存する日本人でいちばんの知性を持つひとの本拠地、知のアジールへ。そこで先達の先達には会えなかったが、本に囲まれた楼で、昼の会話の続きをする。この空間にて、知のアジールアフォーダンスを受ける。メインな会話は、「借り」について。貸すのは、モノやカネだとおもうかもしれないが、貸すのは負債である。相手に負債を負わせる行為が近代の貸すである。それを越えたところに、先駆者の負債のない貸しにこれからのワールドモデルの可能性は存在する。

 

18時30分、予約の串屋へ。また会話の続き。楽しすぎて、話しすぎて、中身は忘れたが、記憶のどこかには焼き付いているから、来春に再び出会うころに、思い出すことであろう。あらゆるものは情報でできている。言葉は意味を持つ。表情は感情を示す。服装はスタイルによる思想を。ヒトはDNAの情報に規定されている。その様々な次元にある情報を串刺しにして、同じお盆の上におくために、広義で多義的な編集はある。その見方さえできれば、世の中のフラジャイルの一切を受け入れることは可能なのだ。世界は見方でいくらでも別の違った顔を見せるものなのだ。

 

21時6分に串屋をみなより先に出て、最寄りの梅ヶ丘駅へ向かう。新幹線に乗るまでひとつの乗り換えのエラーが許されないくらいの、ギュウギュウなダイヤに従いながら、これを逃すと朝まで帰れない恐怖に緊張感を覚える。東京在住の仲間に、乗り換え時の車両のどこにいればスムーズに行くかの事細かいレクチャーを受け21時43分の東京駅になんとかたどり着く。

 

22時ちょうどの東京駅発、名古屋行きのヒカリに乗って帰郷する。雨のトウキョウ、アスファルトに映るライトにSF的未来を想像しつつ、今日のできごとの余韻に浸かる。顔の見えなかったひとの発言は、顔を知り、思考を垣間見ることで、別様の、多面の、新たなプロフィールを発見できるのである。このプロセス、最高に楽しい、不足こそすべてのはじままりである。