10月3日

日本海を横断している台風の風が吹く。夕方、3時をまわったころ突然分厚いグレーの雲が鈴鹿の山を越えて来た。杉林の間伐作業中、一瞬にして辺りは暗くなり、森は畏怖をアフォードする。どんどん季節は回っていく。帰宅して、味噌汁を作り、さつまいもを焼き、ゴボウをゆでる。里芋が食べたくなったから、もう秋だ。

 

親父が帰宅した。すぐにテレビの電源をつけ、チャンネルを回す。冷蔵庫のビールを手に取り飲む。今日雨降ったか?と聞かれ、降ったで~と答えたら、オヤジはテレビを見ていた。ぼくは先に食べ終わり、食器を洗っていたら、オヤジはテレビのある居間へ移動し、机のお菓子を食べていた。食器は食卓に放りっぱなしであった。

 

思うに、子どもにとって大切なのは、親と一緒にいることだ。しかし、ぼくの親世代は、遅くまで働き、帰ってきたら、子はもう寝ていて、こどもは親が働いていることはわかっていても、そこでどんなことをしていて、どんな工夫をしているのかがわからない。それってスゲー問題じゃないだろうかとおもう。

 

大人になって、会社勤め最終章の親父をみていると、とてもとても虚しく思ってしまう。もっといろんな話がしたかったのに、自分のことを話さないで、世間はこう思っているとかをテレビで見たことそのままに、ぼくが一番しょうもないと考えていることを話す。ぼくは思う、自分と向き合ったことがないのだろう、これから平均寿命まで20年、会社勤めから解放された時間を何に使いますか?Googleには答えはない。誰も教えてくれない。答えは自分と向き合うことでしか得られない。お菓子を頬張りながら、座椅子に座って、テレビを見て、死んでいくのだりうか。

 

そんなのぼくはリスペクトできない。それに対する反骨心や天邪鬼がぼくをこうさせた。

 

僕は両親のことが大好きだったし、それは今も変わらない。だが、現実をめぐる会話になると、自分の中で一番強く結びついていると感じていた「家族」の形が変容していく。 僕が受信していた両親の姿と、両親が口にする彼ら自身の姿。 僕はその二つの像にズレが生じていることを少しずつ体感するようになっていった。(坂口恭平『現実脱出論』より)