8月25日

京都に住んでいたころ、平日の休みの日によく今出川の赤メックのイートインで朝食を取っていた。今日は久しぶりにここからスタート。

 

アンチョビのパンを食べながら、Kindleで松岡正剛『花鳥風月の科学』の「仏」の章(昨日高野山へ行ったから)を読んでいたら、隣のテーブルの女性の話し声が聞こえてくる。(Kindleがどうも使いにくいと思っていたのは、スマホの画面が小さかったから、8インチのタブレットなら見やすい。サイズ大事。) 「わたし、◯◯のハンバーグ好きやねん。ちゃんと牛肉の味がするやろ。それに普段、お肉食わへんねん。サラダだけ。健康的やろ?」

 

他方で、パンを選んでいるおばちゃんの声が聞こえてきた。「人にあげんねんこのパン。3個にしようかな、5個にしようかな。どれがいいやろ。」(贈り物は奇数でというのを、パンで表現) 色々あるけれど、地で日本らしさを爆発させようではないか。そのために、自由に動けるような体勢を整えること、時間を確保すること(お金は増やせるが、時間は増やせない)、勉強を惜しまないこと、伝えるべき人に伝えること、あるものに深入りするとは区分を細かくしたり句読点を変えて関係を変えること、ミニマムポッシブルだということ。

 

インスタ映えという言葉に代表されるように、目で見るだけの世界、いい感じのデザイン重視の世界に、一発蹴りを入れて、『陰翳礼讃』の最後の一文を。「私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。 」(青空文庫より)

 

帰宅して、ソファで眠りにこける。はっと目が覚めたら18時で、あたりは薄暗く、黒い雲が近づいている。体にまとわりついた汗を流そうとシャワーを浴びる。汗が流れたことを確かめて、 シャワーを止めたのに、まだ水の音が聞こえる。雨が降っている。シャワーの音を引き継いだように、雨がポツポツと降り出した。夏は夜だとだれがいったか、夏は夕暮れ、誰そ彼。レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』にサンセットのことだけ書かれている章がある。人を離さない魅力が、夕暮れにはある。雨降りだけど。

 

久しぶりに食べた豚肉のロースがおいしかった夕食後、コーヒーを淹れ、赤メックで買ったバナナのタルトをいただきながら、内田樹『下流思考』を読む。「なんでひらがなを勉強しなきゃいけないの」と小学生の子供に聞かれて、愕然としない親は、この本、読んだ方がいい。読みながら、思い浮かんだのは、パタゴニアの「すべての子供が16歳までにできるべきこと」と、小山田咲子『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』の「親子関係に限らず、友人でも、恋愛でも、相手の言葉に対して批判したり賛同したりするのは容易いが、相手の真意を汲み取った上で、的外れな決めつけじゃない肯定と受け入れの言葉を発するのって意外に難しかったりする。」だった。

 

「当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにあります。」と、内田樹さん(『下流志向』より)。

 

内田樹さんを読み終えて、内田繁さんの『インテリアと日本人』へ向かう。年末に、春まで通っていた学校のクラスメイトたち(と言っても、ほとんどが年上)が我が家に来て、猪鍋をつつきに来る予定が組まれている。猪鍋はキラーコンテンツだ。ここに来なくては食べれない。タイヤメーカーのミシュランがグルメガイドを出版するように、美味しいものは現地にある。

 

初秋の夜、コオロギの鳴き声に、心地よい涼しさに、なぜかドキッっとする。網戸を通って寝室へ入ってくる夜風が含む花の香りにドキッっとする。これだから、夏は夜なのだろう。