8月26日

自然の摂理を勘定に入れないからいろいろがおかしくなっている。表面的なことで一喜一憂しがちで、不勉強が染み付いている。無関心が蔓延っている。デトックスをするなら春先から夏の汗が出る時期にすべきで、秋から冬にかけて動物は寒さをしのぐために体内にエネルギーを貯める。そんなの言われなくともわかるでしょ(いや、年中同じ野菜がスーパーに並ぶから、旬がわからなくなっているのか)。そんなことも気にしないなんて、どうにかしてるか、いい先達がいないんだろうなと思いながら、タオルケットで寝たはいいが、窓から入ってくる寒さで目が覚めた8月下旬。もうずいぶんと秋っぽい。

 

夜、Kindleで内田樹『下流思考』を読む。読みながら、ぼくが「もっと本を読んだほうがいいよ」とおかんに言ったときに、「いくら本を読んだって、本に書いてあることが本当のことかどうかなんてわからないでしょ」と返答されたことを思い出す。あるとき、友人の奥さんが、「だから本を読むんじゃないの」と言ったとき、それだ!とおもったのだった。「自分が無知であることを知るために」、「世の中にはたくさんの見方があること」を知るために、本を読むのだ。共通認識の絶対的「正しさ」を求めているうちは、そこにはたどりつけないのだとおもっている。けれど、それからこれには万燈セットするだけで簡単にコストゼロで変われるのだけど。

 

『下流思考』を読んでいると、「当たり前ですけど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。」「期限的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそ学びを動機づけているのです。」とあって、まさにそうなんだよな。この本に付箋をつけて、おかんに手わたそうとおもう。