7月30日

朝から暑い。 刈り飛ばした草はアスファルトの上で一瞬にして乾いた。根が水分を吸い上げて細胞内で循環しているうちは草はピンピンしている。ひとはというと、この炎天下であっても動き回れる。この比較にデスクトップとモバイルをおもう。

 

高山宏『アリス狩り』をマーキング読書したくなった。なぜって、批評の仕方が気になるから。四条のジュンク堂で読んだ『アレハンドリア』にバカボンのことが書かれてあった。赤塚不二夫がバカボンを描いたときの時代背景とかね。極上の批評家は、批評の型を持っている。対象に対するアプローチの仕方がある。それを、リバースエンジニアリングしたい。「その言葉を発したり綴ったりした人物のこと、その言葉が使われた状況のこと、その言葉のルーツや背景のこと、そういうことを共感してみるのです。これは感情や知識を使って言葉の周辺を感覚的に学ぶ方法です。」と大師匠。

 

「祭り」について調べていると、松岡正剛『花鳥風月の科学』の文章が気になった。

 

われわれには「どこへ行ってきたの?」と聞かれて、「いや、ちょっとね」と答えられる場所が断固として必要なのです。いや、人に知られない隠れ家だっていい。映画館だってパチンコ屋だっていい。しかし、そこは「ほか」そのものでなくてはならないのです。実は、地球にだってその「ほか」が必要です。地球にもどこかの隠れ家がほしい。私は、その「ほか」の最大の対象が月ではないかというふうにおもいます。

 

ぼくが郡上おどりへ行くのは、そういことだ。年に数回、どこかへ誰にも何も告げずにあてもなくはふらっと訪れるのは、そういうことだ。再度松岡正剛さんの文章を拝借いたす。

 

近代がつくりあげた市民社会というものは、つねに「アテのないもの」を締め出すように構築されてきたのです。ヴァルター・ベンヤミンやミシェル・フーコーらが近代史から告発し、証言したことです。しかしそれは、最近の我々が「ある名状しがたい行方」というものを損失したせいではないかとおもうのです。

 

いやあそれにしても暑い。