7月29日

寝ているアイダのわたしは一体誰なのか。友人との食事ではだいたい、これからのこと(短期目標)を懺悔のように口に出す。自分の中だけで思考をぐるぐる巡らせていたことを、自分の外に引っ張り出してひとに言うと、それが、結構形になっていく。昨夜は友人とひさしぶりに牛肉をお腹いっぱい食べ、締めに醤油ラーメンを胃に押し込んだ。平日の今日、腸の調子はよくはない。発酵というより腐敗している。

 

仕事帰りに、スーパーに寄って野菜を買う。小腹が空いたので、なにかないか探したら、米粉パンを発見。片手に持ち食べながら帰る。食べ終わってから、裏の成分表を見ると、確かに米粉が先頭にかかれていた。じっくり順に目を動かし、最後に目をやると、グルテン粉!やられた。世の中、健康を謳っているけれど、それ、マーケティングですから、不健康になりますよと。そんなことを思いながら、ココナッツシュガーとたまり醤油の焼き餅ってどうだろうかと思いつく。

 

わからないってだけで慣習的にやらなかったことに対して(つまりは無知な自分はなにかわからないから恐れをなしていただけ)、その事実を批評するがごとくなぜそうなったのか、背景と方法を調べ、自身の倫理を組み立て、合法的に良識を持って楽しんでいくことを目指すべきだ。

 

日中35度を超える日が続く予報の中、夕方、日が沈んでもまだ気温は落ちない。夕日の残光のオレンジが辺りを照らす感じが、メロウでいい。この空気感をメロウでグッドなバイブスの夏と感じられているうちは、ぼくは、まだ時間に余裕があるということなのだろう。

 

昨日ひさしぶりにあった友人が少々荒れていたのは、時間のなさが原因のようだろうと思った。空をぼーっと見つめる時間を、ぶらっと海を見にいく時間も、もちあわせていない。健康のためにちゃんとした食事を取ろうとしても、新しいことやいまの仕事に役立つことを勉強しようとしても、仕事以外の趣味のことをやろうとしても、結局時間がないと何もできない。面倒臭いからコンビニで済ましたり、スマホでずっとゲームをしていては、そりゃどんな人でも24時間しか持っていないのだから、荒れても仕方ないのだろう。

 

いろいろの問題の根本は、「わたし」と時間の付き合い方がすべてだとおもう。21世紀にはますます「時間」が希少な資源になっている。そうだよな、だって、見渡せばそこいらに誘惑が落ちているもの。