5月28日
朝から雨。過ごしやすい気候。ゆっくりしようとコーヒーを淹れようとしたが、珈琲豆を切らしていた。いつものコーヒー屋さんへ出向く。時折、強い雨がフロントガラスを打つ。1時間ほど車を走らせて津へ向かう。店に着くなり、ブラジルやのに酸味があるやろ、とぼそっと、おっちゃんがコーヒーを淹れてくれた。今月はブラジルのCOE豆を2つ買った。
道中の頭の中のこと。春先に学校のステップ1を卒門してからそこで学んだ型を反芻する日々を送っている。知覚するものを見る目、本を読んでいるとき、ひとと話すとき、ものを書くとき、なにをしていても、型がぼんやりと見える。
夕方、『老子』をパラパラ読んでいたら(ぼくにとって『老子』はそう言う読み方が合っている)、郵便配達員が大きな荷物を持ってきた。なんか頼んだかなと思ったら、白川静『字通』だった。ぼくがこんなのを買う日が来るなんてとおもったら、ちょうど為末大さんの記事が現れた。
「会議に出て喋ってみた日とそうでない日。座る場所を変える日と変えない日。自分の行動によって相手の反応も変わる。皮肉なことに何も変わらないと言いながら、一番変わらないのが自分の行動であったということは多い。世の中がいつも同じなのではなく、自分が習慣に縛られているから世の中が同じ反応をしている。
能動的にトレーニングをするということは、自分で何かを変えてみてその結果を注意深く観察するということ。そうしてそこから得られた学びを活かすこと。その繰り返しで、迷信と真実は分けられ、自分なりの戦い方が生まれる。指示待ち人間は自分には実験する権限があることを知らない。今この瞬間にも自分はなにかを変えてその結果を観察する権利がある。」
学生の頃あまり国語や漢字や古典が好きじゃなかったのはただテストで点数が取れなかっただけで、楽しさを味わえていなかっただけなのだろうな。その楽しさを教えてくれた大師匠に出会えて、ほんとうは嫌いじゃなかったと思えた。その楽しさを教えてくれる人がいなかっただけなのだなと。楽しかったら楽しさを追求し実験しょうとするのが、ヒトのサガでしょうよ。