5月26日

7時30分に目覚めてベッドでうとうと。8時30分に家を出て、1週間分の食材を仕入れに地場のとれたて野菜を扱う直売所へ。アスパラガスに、ブロッコリーに、待望のニンニクが出てきた。家に帰ってさっと用意を済ませ、伊勢神宮へ。といっても参拝ではなく、美鈴川ほとりの体育館で試合。地元のチームの助っ人で参加。同級生がいたりと昔から知った顔が多いチーム。

 

「群れには大きく二種ありまして、自立した人たちが集まる群れとそうでない人たちの群れのふたつです。僕もこのような(自立した人たちが集まる)群れに関わることはいまでもあり、特徴は即座に解散可能で再集合も可能な点です。若い時につるんでいた友人たちも、年齢とともにこのふたつに別れていくものです。」と師匠の言葉を聞いてから、限りある時間のなかで、この人には絶対に会わなければいけないというひとに会いに出かけるように心掛けている。また、仲の良い友人や大人になってから知り合った友人のほとんどは、即座に解散可能で再集合可能であるようにおもう。そういうひとたちと一緒にいるのが楽しいから、自分もそうなろうとおもった。自分自身が楽しい人になれば、そういう友人は増えると考えた。事実、近年知り合った友人たちと一緒にいると楽しい。みんな変わり者ばかりだ。

 

「誰もが知ってる場所を、誰もが見たことがないように撮るのが、この大情報時代の映像制作の醍醐味なんだと思いますよ。また、安易な情報から良いクリエイティブは生まれません。なぜなら、良い情報も素晴らしいクリエイティブも、もはやネットの検索からは出てこないからです。」と師匠。

 

試合会場に早めに着いたから、伊勢神宮に参拝に行こうと思ったけど、ひと、ひと、ひとのためやめにして(平日の雨上がりの朝が一番好きだ)、おかげ横丁の隠れグルメ、豚捨の牛丼をいただいてくつろぐ。おかげ横丁にありながら、奥まった場所のため、お昼の時間なのにひとが少ない。伊勢に参拝するときに、吉野裕子さんの著作を読むと違った目線で伊勢のことを知ることができる。

 

数年前に所属していたチームでのひさしぶりのプレー。こういうときには、過去の自分と今の自分を対比できる。この1年のプレー面での変化はかなり大きい。昨年から就任した監督のもと練習を続けていると、今まで見えていなかったものが見えるようになった。サッカーやフットサルをプレーすることにおいて、なにが最初に来るか?ボールコントロールやシュートではない。状況把握だ。いま自分はどこにいるのか、相手は何をしようとしているのか、何対何か、残り時間は、などを顔を上げて周囲を一瞬で見渡し判断してプレーに移す。行動の前に認知と思考が先に立つ。そのトレーニングを積んできた成果が明らかにわかった。身体的な能力は変わらないけれど、思考が整理された。状況判断のスピードと質は明らかにあがった結果、プレーが向上したように思う。

 

これは、フットサルに限らない。久しぶりに会ってゆっくり同級生と話すと、この一年で出会った人たちに受けた刺激による変化がかなり大きい。思考は明らかに変わり、言葉遣いは激変した。今年の秋から昨年より厳しく楽しい修行をする予定なので、また、激変する気がする。

 

ひとを伸ばすのは環境だとおもう。個人でできる努力は、好奇心を発電すること、興味のある人たちの集まる場所に足を運ぶ勇気を持つこと、何かを学ぶときに矜持を捨てること。

 

学習はこの「学び手」と「教える者」の相互作用(インタラクション)によっておこります。ですから、どんな教わり方をされたのか、誰に教わったのかということは、学習の最も底辺のしくみになっているのです。と大師匠より。

 

自分で教えるひとを選べる時代にいまはある。ナタリー・ポートマン本人から演技を、サンタナ本人からギターを、アニー・レイボビッツ本人から写真を、マーティン・スコセッシ本人から映画を学ぶ方法がある。(このWebサービスはやばいっす。)ぼくはそうした。それがこの時代の学習の作法なのかもしれない。いや、いつの時代だってことをなしてきたひとたちには、偉大な師匠がいた。この時代は明確な意志さえあれば、いつだって偉大な師匠にアクセス可能なのだから、必要なのは、勇気くらいか。

 

朝買ったアスパラを茹で、友人からもらったパタゴニアの岩塩を振りかける。うまい!野菜のおいしさはなんてったって鮮度のよさが一番である。「徐々に色あせていくなら、いっそ燃え尽きたほうがいい」とカート・コバーンが遺書に書いていたよな、なんておもいながら、白川静『字通』を買ってしまった。後悔はない。