2月9日

兄貴にベッドを取られたので(正確には譲ったのだけど)、これはまたとない機会だと思って、家の中で、アウトドア用のマットで試しに寝てみる。フローリングの床からくる冷えは完全にシャットアウトできているから、よく眠れた。これは、いける。フッフッフッ。

 

さてと、師範代からの指南で、起き抜けに、坂本慎太郎『君はそう決めた』を聴きながら、思考がぐるぐるまわる。

 

想いはほとんど言葉にしなければ伝わらない(思っているだけじゃダメだし、なんで気づいてくれへんのはただのわがままだ)→思いを言葉にするにはたくさんの言葉を身体に貯蔵しておかないといけない(表現できないことというのは言葉足らずなのだ)&それを素早く取り出す訓練をしておかなきゃいけない(言葉のブロックを作っておく)→知らない言葉を知るとは、たくさんの文章に出会い感情を揺さぶられることである(多読のすすめ)→言葉とそのときに生まれた感情のセットが記憶として刻まれる→想いという目に見えない多次元のものを伝えるにはたくさん書くしかない。

 

結論、想いをことばにするとは、パウル・クレーの言葉を借りると、

 

芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」とのあいだに行きなさい。

 

なのだ。芸術なのだ。と十分な睡眠の朝におもう。余裕と睡眠大事だな。今日は神戸で試合。朝に支度をし、台所で師範の助言を読みながら、机上の空論が無駄ではないなと感じる。はじめてレイモンド・クノー『文体練習』を読んだとき、おもしろいなあとおもって本を閉じた。今日、師範に助言をもらってから読むと、前に読んだ時とまったく違う本になっていた。言葉は服を着る。どんな服を着ているかによって、その服を見たひとが受け取るイメージは変わる。中身は同じことばでも。