11月8日(月)

週末両日とも、お酒を飲んで、午前2時に家に帰ってきた。今日は6時30分に起きて、いつも通り仕事に行った。昼過ぎに仕事から帰り、昼ごはんを食べたら眠気に襲われ18時に目を覚ました。外は真っ暗で風がびゅうびゅう吹き荒んでいた。口内炎ができていた。疲れていたのだろう。QrionのI hope it lasts foreverを聴きながら、今夜はゆっくり、週末の断片を酔っ払いの戯言として振り返っておこう。

・学校の先生の友人の考えとその背景を聞いて、ぼくが高校時代に感じていた先生に対する不信感の正体を垣間を見た。友人の思想は、排他・管理主義的、ファシズム風、ユートピア思想、家父長ライク、資本主義チックだった。今日の日本の現状(貧困が7人に一人とか)を把握しようとせずに、理想を安易で中身も検証もない安っぽいマーケティング用語で教団に立っているであろう姿に正直引いた。自己責任とか、主体性とか、ずかずかとそれが最上ですと言わんばかりに語っていた。大人が使う、空虚で綺麗を装う言葉を、多感な学生は、たとえ知識も経験もなかったとしても、いや、ないからこそ敏感に感じとってしまう。

・多様性の経験がなければ、ステレオタイプ(典型例)でしか、人を認識できない。お金持ちが偉い、先生のいうことは聞いて当たり前、外国人はみんなコーラを飲む、なんて、そんなわけない。ステレオタイプはメディアが恣意的に作ったイメージである場合もある。ステレオタイプばかりで捉えるから、その目の粗い網から溢れる情報はないものとしてしまう。人間ひとりひとりをしっかり見てあげなさい、と言いたい。

・ぼくが働き始める前に考えていたのは、早く帰れる仕事かどうかだった。お金はちゃんと生活できるくらい(まあ、住むところがあって、食べ物に困らないで、本が買えれOK)あればいい。残業なんて論外で、それよりも、早く仕事から帰ってきて、仕事以外の時間を好きなことに使いたかった。そんなこんなで働き始めて10年弱経過して、ひさしぶりに会った友人とのギャップに驚いた。ざくっと掻い摘んで、狭い世界で上から降りてくる指針に従順に首を振った仕事だけの10年と、仕事以外の時間を読書と旅と人と会うことに捧げ真剣に遊んた10年には、まぎれもない差があった。一番驚いたのは、遊んでいただけなのに、真面目ですねと言われたことだった。

・10年ほど前、ぼくは自分のことしか考えていなかった。そもそも、自分とは何者かを知らなかったから、自分とは何者かを自身に問い詰めていた。何が好きで、何が嫌いで、なにがやりたいのかと。それで、先述したとおり、お金はないが、時間持ちだったから、自分がちょっとでも気になったことに時間をコミットするようにした。コーヒーを美味しく淹れる、ピースボートのボランティア、プログラミング、マクロビオテック。とにかく気になったことの本をまとめて数冊買っては読み、週末には現地へ出向いたり、自分で実験をした。そうしているうちに、自分とは何者かを感じ取れるようになった。自分とは何者でもないのかもしれないということだった。そう悟ったとき、人の役に立ちたいとか、自己責任論糞食らえだとか、ジコチューでわがままだったぼくが言うようになっていた。あの僕が。

ああ、酔いすぎついでにもう一言。マクルーハンがメディア論で言ったように、社会がメディア化するがごとく、ひともメディア化していくだろう。この10年の友人と僕の間は、どんな情報とメディアにどれだけ接してきたかが層として現れているのだろうな。ぼくが会った一番影響の大きいメディアは、ひとだろうな。大人になっても好きなことして遊び倒す、礼節がありながら嫌な人とは連まない、世の中の本を読み尽くすくらいの読書家で、アンテナの感度ビンビンな、ほんとにそんな人いるんかいって思うような人たち。ぼくはこの社会において、そういうプロトタイプのひとりであろうと決意する。

さて、Grateful Deadでも聴いて寝よ。