8月1日

8月です。

 

通勤時に赤信号で何回も止められることに、なにかの予兆を求めたくなるけれど、それはそれでたまたまなだけだ。なのに、それがなにかの仕業だと思ってしい、意味を求めすぎてしまうから、しんどくなる、立ちゆかなくなる。そんな隠れたいときに、誰も知らない穴をもっていりゃ話は別だけど。なぜって。われわれには「どこへ行ってきたの?」と聞かれて、「いや、ちょっとね」と答えられる場所が断固として必要なのです。とセーゴーさんがおっしゃってます。

 

あることを「やる」と「やらない」ってだけで、「やった」未来か「やらなかった」未来が来るということは、未来を選んでいるのは現在のわたしである。なにごとも、明日は今日より進歩していなくてはいけないと思い込みすぎているのが、21世紀的西洋風の思考法で、それに迎合しすぎてはいけない。えっ!?それってフツーじゃない。他になにかあるの?かれこれ数世紀日本では、変化という方法が用いられてきたのに、今は忘れられているんです。

 

ふと、老子の話を思い出す。「粘度をこねて陶器を作る。陶器のなかの空っぽの部分に物を容れる使いみちがある。(中略)すべて形有るものが役に立つのは、形無きものがそれを支える役割を果しているからだ。」からっぽは機能である。それなら、いろんなものでいっぱいにため込んじゃった現代人には、「たす」ことより、「減らす」ことによって、機能不全に陥った人間らしさを取り戻せるんじゃないだろうか。祭りだな。盆踊りだな。

 

夜、フットサルの練習場で見知らぬ子供が、「年下やから負けてしゃーない」と言った。んなわけないだろ、そんなことを覚えさせた大人にキック!

 

Viva夏休み。