5月10日

「なんでもタダでできる」からといっても、肝に銘じなければいけないのは、タダより安いものはないということなのだろう。

 

「いい情報もすばらしい体験もネット検索からは生まれなくなった。」ネットはツールだ。同好を通じて知り合った旅する友人たちとSNSを介さないプライベート・グループでダイレクトに現在地にピンを落とし、たまたま近くにいたら一緒に飯に行くスタイル、いいものを見つけたからと誘いあうスタイルを少しずつ構築している。

 

「自分がコレと思ったものには、誰がなんといったって、リスクをかけて選択しないといけない。」そういうものってタダじゃないし(おっと尻込みさせられるような値段設定が多い)、ものじゃないことが多い(ソフトウェア、知恵、技術、コネクション、経験)。車や家や服を買えば所有欲を満たせるだろうが、ここで言っているものは、ソフトウェアで、技術で、目に見えないから手元に形として残らない。そんなものにリスクをかけてお金なんて払えないとおもっているひとが多いから、チャンスです。

 

もともとそういう姿勢だったのだけど、ロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』を読んで以来、その姿勢が明確に言語化された。カウンターな姿勢をキープし続けたい。みんながやらないことをしたいし、みんながやっていることでも違う見方をしたい。日頃の何気ないことで、それってどうなのと感じたとき、一縷の隙も逃さずに、頭の中にその感情をスクリーンショットしておく。

 

「その理由は、「ハーフといわれる子供」たち(と、同じような境遇の親)が多く、疎外感を感じないからです。教育とは、勉学だけを意味しません。 なにより、環境が大切だと、米国の沿岸主要都市かロンドンの学校に入れて、楽しそうに過ごしている友人家族を見て感じております。」と師匠の話を聞いて、シンガポールの友人の家の間取りの導線のことを連想した。彼の家の間取りは、自分の部屋に行くためには、必ずリビングを通らなければいけないようになっている。どんなに機嫌が悪くても、リビングにひとがいれば顔をあわせることになる。ひとって喋らなくても顔を見るだけで、怒っていたり、気分が悪かったりがわかるのだから、「必ず顔をあわせる」というのは大事なことだとおもったのだった。環境って大事だ。

 

人間関係を一番に考えた設計なんてあればいいのにとおもう。そういうことを考えて作ればいいが、最近はそんなことないようにおもう。間取りや部屋数や敷地面積やデザインのことばかり。問題をアイデアで解決せず、なにかを買ってきて付け足せばいいで済ます。問題を睨めていない。いや、確かに、そのほうが簡単で早いけれど、それはとても悲しいことだと思う。

 

「国の方針に疑問を持たないような人間を育てる教育がなされてることに誰も問題意識を持たないでいることや、ふつうの感覚で生きてるだけでかなり洗脳されてることに気付かず、 外からの人間に対するやっかみはすごくて聞く耳持ってくれないし、知ってることが間違ってると指摘されるとすぐ怒る」(ロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』)

 

それは、家の間取りの話ではなく、技術の話でもなく。考え方の問題に起因する、とおもっている。あらゆるものの、あり方を考えていないことに起因する。「といえば」が使い捨てられ、「とはなにか」と「そもそも」は蚊帳の外にある。思想を根っこから抜かれたらおしまいだ。なんて、この3日間の疲れで、現実でうとうとしながら、帰宅後ベッドで爆睡しながら、思った。