1月26日

自分で見たり食べたり出向いていないのに、行ったかのように話をよく聞く。食べたことのないラーメンを食べた人の話を頼りに語ったものは偽物。じゃあ、自分がそのラーメンを食べれないなら、だれの意見を聞くか。それはテレビを見るとき、新聞を読むとき、はじめて行く街でおいしいご飯を探すとき、あらゆるときに、判断せねばならぬ。タダの情報に注意。汗をかいていない情報に注意。母型のない情報に注意。自分なりのものさしを持っているほうがいいとおもうのは、なに食べでもいいといわれて、何も基準がないと、昼食が、コンビニのカップ焼きそばに、シュークリーム、飲み物はメロンクリームソーダになっちゃう。たまに食べるとおいしいけど。

 

どんな考え方をしてもいいのだけれど、ものさしを持っているべきだとは思う。最近はそのものさしについて考えている。ものさしとは、長さを測るだけのものじゃなくて、ときに神話を読み取り、ときに風に乗った言の葉を受け取り、ときに山の畏怖を感じるものだ。

 

『花鳥風月の科学』のつづき。風の章。「風の音にぞ驚かねぬる」 浮世離れしたやつのことを風流という。風流は風流過差とよばれる。過差は過差なること、重なること、過激なこと。過差を傾くや傾奇と呼び歌舞伎の起源となる。風に狂う一休。「私はこうした一休のすさまじい態度や生き方を見ていて、日本の歴史がつねに『格』と『様』と『礼』にたいして、『破格』と『異様』と『無礼』が交差してきたこ歴史だったということをあらためて感じています」と正剛さん。やばい。本章の最後に、「風は呼吸です。呼吸は風です。その風と呼吸によってわれわれの言葉というものが出入りする。それなら、言葉も風でなのです。まさに言葉は風に舞う『言の葉』なのでした。」やばすぎる。

 

さて、待ちわびたイベントの知らせ。一瞬考えた。何を考えたかというと、これに参加したあとの世界と、参加しなかった後の世界のこと。あらゆる娯楽は家の部屋のソファでインスタントに手に入れられるようになった。だいたいのことはそれで事足りるけど、大事なことはライブで体験すること。音楽はライブに限る。先端テクノロジーと脈々と受け継がれてきた知恵のバランスを。中庸に現代から未来が詰まっているきがしてならない。ぼくにはまだまだどちらも欠けている。