1月27日

「本に書かれていることが事実かなんてわからない」ということを、またまた言われたから、本を読むことについて考えている。

 

そもそも。ひとつここに勘違いがある。真実はひとつかもしれないけれど、その見方は多数あるということ。そもそも本を書くという行為は、編集するということ。たとえば、小学生の男の子に今日学校どうだった?と聞いたら、「給食がカレーだった」と男の子が答えた。ここに男の子は会話を編集している。だって、学校生活は、家の玄関を出て、登校中の道から学校について、授業があって、給食があって、遊んで、うちに帰ってくる間に起こったことでしょ。その1日の中で、給食がカレーだったと男の子が言うんだから、男の子はカレーが好きなんだろうなってことを察することができる。このクラスに20人の生徒がいたら、学校生活は20通りある。それ以上ある。20通りが集まればひとつかと問われればひとつではない。真実はひとつかもしれないけれど、見方は多数だ。だからおもしろい。

 

本を読むことについて長期短期のコストを考えてみる。映画(amazonのストーリミング)2時間400円、CDアルバム60分3000円、数年後に聴きたいものわずか。ウェブサイト1分0円、数年後に見るもの皆無。本、数時間2000円、読むたびに感想が変わる本は、数年後に何度も楽しめる。自分の考えに影響が大きいのも、本だとおもう。前も書いたとおもうけど、自己投資の利回り25パーセント。自己投資はあらゆる投資の中でもっとも効率がいいという。一度手に入れた、知識や知恵は腐らない。

 

本を読むのは、結局のところ、読んでいて楽しいからにほかならない。今まで見てきたことがまったく違って見える瞬間を味わうと病みつきになり、今読んでいる本が過去に読んだ本とネットのリンクのように繋がっていて、本と本の間にある「繋がっている」関係に気付いたときの身震いはたまりません、それが実は現実とも繋がっていて、はじめて会ったひととの話に困らず、などなど効能がたくさん。だから、本をたくさん読む。

 

ジョン・コクトーはオリジナリティを嫌って、「私はオリジナリティは大きらいだ。できるだけそれを避けている。」といった。多読の日々です。さて、『花鳥風月の科学』のつづき。鳥の章。これ。めちゃめちゃおもしろい。鳥の行方と言語の発現の物語は世界共通で存在し、日本位置いてはホムツワケがいて、その泣き叫ぶ姿にはスサノオの影がうごめいているという。神の章に書かれていることが引っかかっている。「われわれのイマジネーションにとっていちばん大事なことは、その 神的なるものがあらわれる体験は、どのように表現できるか、その表現をわれわれはどのように見るのかということなのです。」