6月16日

コロナウイルスが炙り出したものは、その国家(システム)の弱点である、というような記事を読んだ。たとえば、アメリカでは、皆保険制度がないためにコロナを患ったとしても、みなが病院に駆けつけるわけではない。では、日本ではどうか、というお題を、夕食のテーブルに並べて、親父にいろいろ聞いてみた。

◆友に会うとはどういうことか。おかんが、なんでこんなときにとかなんとかいうから、そんなことを考えた。なんでこんなときにというのは、来週には家を取り壊すこと、コロナ禍において東京から友人が来ること。

◆友と会うとは、一期一会、一生に一度っきりの機会なんだよ。そのときにはね、場と数奇が大事になってくる。場ってのはね、時代のうねり。数奇ってのはね、世間に向けている目ってことだよ。友と、その場で、世間にどういう目を向けているのかを雑談する。数奇は混じり合い、見えてこなかった価値が生まれる。一座建立。

◆どんなときであろうと、ぼくは、数少ない友達が連絡をよこしてくれたときには、もてなすと決めている。出迎えや見送りなんてめんどくさいって言う人が多いがしかし、友人関係において、やはり、損得勘定やめんどくささなんて持ち出すのは野暮すぎる。僕は、出迎え、見送りが大好きだ。

◆それはそうと、余裕がないとき、「たまたま」を引き取れない。「たまたま」に理由を求め、合理を得れないことに満足をする。できない理由をあげて、不可能をもとめるとき、できる理由は最初から存在しない。「たまたま」をこそ引き留め、言い換え、チャンスにする力こそが、野生の思考であり、ブリコラージュではないか。と、温泉に行くのを諦めて、雨夜の涼しさの中、ソファで思う。

◆引越しの際にあらわになるのは、使わない大量のモノである。そのモノを見たとき、いつのまにか人間は重くなっているのだなと気づく。モノの多さ(または内容)と、心の軽さは比例している(ぼく調べ)。