3月11日

自室のベッドで目覚め、いつもどおり朝食を食べ、職場に向かい、仕事をする。この4ヶ月を振り返る。まあソンタグだろうなあ。師範代に、師範にやばいなあ。

 

夜、スーザン・ソンタグ『反解釈』を師範の手すりに沿って読む。以前はなんとなく読んだだけだったことが、付箋を追いかけるとわかる。昔と今とでは、 ピントが合う文章が違う。キーワードを決めて、ホットワードに付箋を貼っていく。解釈の暴力性、「現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる」、何かを語るのに、主語に「私」はいらない。そんなことをしなくたって、語り口や選んだ言葉で「私」はわかるのだから、というのは、ソンタグのキャンプに近いと師範。そのあと、千夜千冊1292夜『無名時代の私』を読む。しばらくしてから、もういちどソンタグ『反解釈』を読もうと思う。

 

東京の日々をぼんやりと振り返ると、祭りの後のサビのような名残り惜しさの衝撃にさらわれる。大きな波のうねりのような、見えない突風のような。セキグチさんと奥さんと半年後の約束をした。また来年のこの時期に東京で会おうではないかと。次のステップを同じタイミングで刻もうではないかと。ひとまずは、ゆっくり養生しましょうと。

 

長時間、外国に滞在していて、帰国したとき(といっても、ぼくは最長で2ヶ月弱なんだけど)、現実とわたしの間に大きな空間があってからっぽな感じ、かといって別物でなく淡々と続く時間の中なのにたーにんぐぽいんってそんなものなのかも

 

そのときになにをしていないかに注意してみると、世のニュースに振れていない、コレまでの世界と違う世界に接している時間が長い、話す話す話す、

 

師範の「わたしを主張せずに、わたしのらしさによってわたしを見せる」そんな文面を見たときには、ふーんと思って腑に落ちなかったが、直に同じ話を聞くと、すとんと腑に落ち、理解がすすんだ。どうやら、同じ人が同じ事を言ったとして、その情報の扱い方(文章なのか、動画なのか、タイマンなのか)によって受け手の受け取り方や出しの浸透具合は大きく変わる。一口大で食べれらる用に切られた情報は食べやすい。ぼくにとって、一口大とは、実際にあって話すことなんだろうな。

 

以下、頭のなかで、思考がぐるぐるのメモ。

 

・わたしは間違っているのか、正解なのか、これでいいのか、ばかり考えることに危険が孕んでいる。

 

・まだ編集術は体に染み着いていない。体に覚えさせねば。

 

・本を読むことについて。たくさん本を読んだほうがいいと言ったら、必ず現れる「本に書いてあることが本当のこと(正しいとは限らない)だとは限らない」と言うひとに対して、なんといえばいいのか常日頃考えていた。先日のセキグチさんの奥さんと喋っているとき、はっとおもった。まさしくそのままだ!本に書いてあることが本当のことではないということ、つまり、ひとつの出来事には、いろんな見方が存在する。多読することはその見方を増やしていく作業、そうやって、見方がひとつではないことに気づくことが、たくさん本を読むことのいいことなんだなと。支えがひとつって危なっかしいったらありゃしない。

 

・あとはですね、本を読むと、見えないものが見えるようになる、見えないものがあることを信じることができることかな。

 

・あとはですね、智慧を身につけると、荷物を少なくできる。荷物を少なくできると移動が楽になる。移動が楽になると遠くまで行けるようになる。森に行ったとしよう。森の中を歩いていると、みたことのないキノコがあった。わたしはキノコのことをよく知らない。キノコのことを知らないから、無闇に手出ししない。毒があるかもしれないから。もしわたしがキノコ図鑑を読んでいて、そのキノコのことを知っていたなら、山で見つけたそのキノコは大事な宝ものになる。

 

・わたしはたくさんのわたしである。わたしは、出会ったモノの部分コピーのパッチワークである、ブリラージュである、鵺である。なにモノ(者、物)かに出会ったとき、感情を揺り動かされる。その感情の微細の集合体である。感情はそれらを賞賛するか、釘付けになるか、対抗するか、哀れむか、怒るか、驚くか・・・しかし、それらを大切にしなくてはいけない。