2月18日

朝から、福井県の今庄へ。朝からひと滑り。山頂では、日本海、若狭湾?敦賀湾?をのぞみ、そこから岐阜の奥を望む。「このような山水画が人々を風光明媚な場所にいざなう。山水画ばかりでなく、山水詩も人々をいざなった。そのうち、人々はその場所に景気を感じてきます。その景気が盛られた場所が景色であり、その景色のよい場所がいわゆる名所になっていく。ここに風景の誕生があります。」(松岡正剛「花鳥風月の科学」)

 

人が多くなってきたので、下山し、敦賀の中心に位置する気比神宮へ。ひそかに、ぼくのルーツは神功皇后(オキナガタラシヒメ)ではないかとおもっている。あるいは関連しているのではないか。鈴鹿山脈は秦氏関連の木地師が住んでいるから、朝鮮と関係している。(松岡正剛「謎床」の母型に持つベき話)日本海から日本に上陸して、山伝えに南下すると、伊吹山がある。そのあたりに南北に連なっているのが鈴鹿山脈であって、その南端にぼくの住んでいる町がある。風の流れを見ると、冬に僕の住んでいる街に吹き荒れる北風は、日本海からやってくる。ということは、そこに山が低かったり、谷がある。そこから風が入って来るように、ひとの流れがあったのだろう。地形はルーツと関係がある。

 

帰り道に、山と海について考えがちらつく。山は隠す。海は見せる。スキー場では、ニットを被り、ゴーグルをかけ、ネックウォーマーで口を隠し、スキーウェアで完全に体を覆う。体のすべてを隠す。それでいて、その格好は山では、怪しくない。冬の山は寒いから。そのままの格好で海に出ると怪しい。海は、水着を着るだけだ。夏の海は、裸にほど近い。いまは海の時代から山の時代なのではないか。いや、街から文化が生まれる時代が終わり、山から文化が生まれるのではないかとおもう。

 

夜、Talking HeadsのStop making senseを聞く。ダボダボのスーツに、フラフラしながら、一定のテンポでなると思いきや、ずれるドラム。音をコンピュータに置き換えたときに、ズレがグルーブになることを発見したと、YMO時代の細野さんと坂本さんが言っていた。モータウンのジェイムズ・ジェマーソンのベースが心地いいのはズレがグルーブを生んでいるから。ズレに反応し、畏怖したのが、山の人に対する野の人だったとおもう。山というだけで、なにか得体の知れないものをおもわせる。日本の伝統芸能は山から生まれた。Make senseを訳すると「意味をなす」と辞書にある。Stopを前につけて、making senseをやめることから、なにか生みだせそうだ。