6月19日

◆家の解体のために、朝、大阪から兄が帰ってきた。家のものをいろいろ物色している。おかんが、「これ、宗教のものやな」と言ったとき、宗教と生活は混ざり合っているのに、現代人の思考においては、別々のものとなったのだなと。言葉の違和感がちょっと気になる。

◆両親と兄とひさしぶりに4人でまったりしている。親父は相変わらずテレビを見、母と兄は新しい住居のカタログであーだこーだ言い、ぼくはKindleで本を読んでいる。

◆どのような会であれ、人が一所に集うことは一世に一回かぎりの出来事である。それ故、茶の湯では客人としての心構えを「一座の建立」にあると説く。またその場での俗な世間話は無用とされ、「数寄の雑談(ぞうだん)」が交換される。「数寄」とは、俗な世間を「ないものフィルター」を通して眺めることによって発動される価値観なのだ。( https://edist.isis.ne.jp/nest/haname_016/ )

◆今日で場があったとしてそこにないものは数奇の雑談なのだろう。好みの掛け合いなのだろう。数奇を話すよりも前に、テレビの大声が幅を利かす。それにしても、子どもの頃の退屈な時間にはなにをしていたのか思い出せない。思い出せないけど、いま退屈だと思う時間が子どもの頃にはなかった。なにかで忙しかった。「暇なんかないわ、大切なことを考えるのに忙しくて。 」