3月20日

「多数決で決めたことはほとんどの場合絶対なのであると、それは倫理的におかしいことでもだ、そしてそれが民主主義というものだ」「国がおおまかな方向を決めたことに進んでいくのが基本だ」と親父が語った民主主義の、それがなんでいいと思えるのかが不思議であった。なんでそういうふうに考えるのと聞くと、自分がそうおもっているからだと。じゃあ、どのようにしてそう考えるようになったのと聞くと、テレビや新聞が言てたんだって。

 

本当にそれでいいのだろうかと疑問が残った。そこで、宇野重規『民主主義のつくり方』を読む。「民主主義とは、自分たちの社会の問題を、自分たちで考え、自分たちの力で解決していくことのはずだ。とはいえ、問題を直視することを避け、逡巡する民主主義は、安易な解決や救世主を求めてさまよい続ける。どこにも引き受けてのいない民主主義の混迷は、深まるばかりである。」「というのも、今日の私たちは、民主主義というと、とかく国政レベルでの選挙や議会政治を想像しがちであり、民主主義をいわば、自分たちから遠いところにある制度や仕組みの問題として考えがちだからである。しかしながら、トクヴィルがまず強調したのは、民主主義とは、移民社会であるアメリカにおいて、名も無い人々が実際に経験したことや、その際の感覚であるということだった。その感覚とは、いわば自分たちが誰にも従属していないという感覚である。」ほほう。

 

本人は気づいていないだろうけど、親父は話す事柄によって人称代名詞が変わる。たいがいこういう話をするときは、WEなのだ。責任はわたしにはない、問題の解決方法は上から提示されるのだから、それに従えばいいと聞こえてくる。