3月19日

「俺、いつ仕事できひんくなるかわからんから」と上司がぼそっと言った。「病院に行ったら、リウマチやったわ」と笑顔で。

 

上司のいない仕事を想像しながら思考がぐるぐる巡る。人生は有限だなんてわかってはいる。わかってはいるけど、実際、そうは思っていない。人生は有限ですとか、なにかの節目を認識するのは、明確な終わりを仄かにでも感じたときなのだろう。そのうちやってくる区切りを意識していたら、多和田葉子の『言葉と歩く日記』を思い出す。なんだっけ、あの一節。帰宅、即、本棚へ。

 

「わたしにとって言語というものが他のテーマと結びつき、身体にうったえてくる時のみ、意味を持つということなのだろう」。

 

蕾がパンパンに膨らんだ桜の枝をガラス瓶に挿す(切り口は45度)。風呂上がりの暮れた西の空に爪のような月が浮かぶ(ため息ではなく深呼吸)。今日は金曜日だから何?明日も仕事(週休2日は経済の夢を見るか)。煮詰めていたブリ大根が焦げた(料理中のうたた寝が原因)。

 

なんでもないような出来事のおかげで、その日が人生に一度しかない日になる。ささいで役に立つかわからないけど、いつ忘れてもいいように、日記をつけている。