3月7日

目の前に全くわからない事象があらわれたとき、どうするだろうか。

 

朝、交差点で信号が青に変わるのを待っていた。窓の外を見ると、家の周りの草に除草剤を振りかけるおじさんを見て、雑草のことを知らないからとりあえずなのか、みんなこうしているからなのかどうかはわからないが、煩わしさを手軽に除去すること優先だな、と思い、足りてないのは、知らないものと対峙したときの方法だろうなと連想する。

 

◆やめる考◆何かをやめられないときの、ほとんどの場合は、代替案が見つかっていないからだ。やめようと思うとき、「ある」から「ない」へ移行しようとする。だがこのとき、「ある」と「ない」の間に大きな距離があって、本当に強い意志や強烈な出来事がない限り、たいてい「ある」に向かってリバウンドする。ただし、リバウンドするあなたが悪いわけじゃない。自分を責めることなかれ。作戦が悪いのだ。◆では、どうするか。「ある」から「ない」の間に1ステップ設けてみる。「ある」に似た「ない」に向かえる別のものを試す。期間と量を具体的に決めて徐々に減らしていくのがポイント。◆グルテンフリーを再びはじめようと思っている。気を抜くといろいろ食べてしまうから、「ある」と「ない」の間のステップとして、グルテンフリーのカナダ産の良質なグラノーラを代替品とし、最後は間食なしを目指す。


テレビから19時のニュースが流れている。「おお」とサーカスを見るように、ひとつひとつのトピックに反応する親父。テレビを見るのを悪いとは言わないが(僕は見ないけど)、テレビを見ながらテレビの言っていないことや、テレビが伝えようとしている裏側を勘ぐりながら見たほうがいいとは言いたい。テレビでは、何が起こっているかを見れるが、なぜ起こっているかは見えない。ひとつひとつの事象は見れるが、ひとつひとつの事象の関係は見えない。なぜならそんな見方、誰も教えていないのだから。(そんな見方を手に入れるべくテレビを一定期間でもいいからやめてたくさんの本を読んでみるなんて選択肢を勧める。)

 

寝る前に、『インターステラー』。細田守の『世界の半分を怒らせる』にあった「国家的な投資というやつは経済構造の頂点に惜しみなく注いで、下流に拡げたときに最大の効果を実現するものだ」とか「そんなものがなんの役に立つものかという態度は、国家の態度として問題外であり、人外魔境であり地底獣国です」を思い出す。国家には国家にしかできないことがある。

 

そうそう、Quartzのだえん問答「Guides:#43 デーティングアプリの黙示録」を読んで、身近な人の話を聞いて感じた違和感を思い出す。頭で考えうるなかでの正しさに向かっていくことを合理と呼んでいる閉塞感と、大切なことはあらかじめわからないという事実を。

 

最初に「しっくりくる」という話をしましたが、「しっくりくる」ことにおいて大事なのは、あらかじめ「しっくりくる」ための条件が存在しているわけではない、というところなんです。なので、「しっくりくるもの」がみつかる前においては、人にわかるのは「しっくりこないものはしっくりこない」という感覚だけです。で、あるものを見て「しっくりきた!」となった時点で、初めて「しっくりくるもの」の要件が立ち現れるという順序なんです。というのが、少なくとも、「ことばの選択」についてヴィトゲンシュタインが語ったことなのだそうですが。