11月8日


昨夜は目覚ましをかけずに寝た。朝、起きたら午前10時。シャワーを浴びて、ゆっくりしたら11時前。腹が減ったから、豚肉とキャベツの野菜炒めを作る。時間があるから、有元葉子さんの『レシピを見ないで作れるようになりましょう。』を読んでから調理する。

豚バラ肉とキャベツを一口大に切る。鉄フライパンを煙が上がるまで熱する。油を敷く。キャベツをフライパンに入れる。片面が焦げはじめるころまで我慢して見つめる。焦げるか否かのタイミングでひっくり返す。芯が残ってるくらいに炒めすぎないで、ザルに一旦引き上げ、塩を振っておく。空いたフライパンに油を敷きなおして、豚バラ肉を広げて投入する。肉がカリッとなるまでまた我慢して見つめる。片面がカリッとなったらひっくり返して、裏面がカリッとなるまでまた見つめる。うまく焼けたら、醤油を回し入れ、再度キャベツを投入する。さっと炒めて、お皿に盛る。

有元葉子さんの『レシピを見ないで作れるようになりましょう。』には、豚バラ肉は、カリッと炒めるのが美味しいとあった。うまい!食べながら、大学の部活帰りによく行ったお好み焼き屋『ジャンボ』のことを思い出した。そういえば、『ジャンボ』の豚玉の豚バラ肉もカリッとなるまで焼き上げていて、それがおいしかった。裏メニュの野菜焼きも懐かしい。

これまで適当に火が通ればいいやとおもって、作っていた野菜炒めのレベルが格段に上がった。すでに自分が知っていることでも、違うやり方や視点は存在する。それを受け入れるだけで、簡単に世界が違って見えるようになる。自己の存在を見つめることからはじめ、ついで他者の存在を認識する。そして、自己と他者が交じり新たな関係が生まれる。

ブッダロード。鈴木大拙『禅』には、「自己はあますところなく放下されねばならぬ。自己性の臭いのする一切のもの、すなわち自己と非自己との対立の跡もとどめてはならぬのである」とある。

夕食をとっていると、テレビを見ながら父が「秋刀魚がスーパーで100円やった」と言った。ものの価値は値段に偏っていて、この場合の値段というと、安く多くやお得が大正解なのである。父の発言にはたびたび違和感を感じるから、聞き耳を立てている。

大衆の常識を変えるのは、いまのところ、テレビや制度など、手の届かない大きな枠組みでしかありえないとおもう。大衆の一番側にあるのがテレビなのだから。一方で、ちょっとした「あれ、おかしいな」と生活に疑問を抱いている個人には、値段以外の価値のはなしが通じると思っている。

世界の流れでは、価値=貨幣が見直されてきている。わかっている個人はそんなこととっくにやっている。まあ、テレビに首ったけの一般的な我が家では、もうしばらく無理だろうな。ビーコープとか絶対理解されないだろうな。

そうそう食卓の父の話をただ聞いていると、彼らの世代はこれまで行ってきた脈々と続く風習を、面倒くさいという理由で、切り捨てていっているように感じる。その風習がなにかを知ってもいないのに、知ろうともしないで。そういうところを残念に感じている。まあそれでも、そういうところに注目している仲間がいるから、危機は感じつつも、希望もある。一寸先は、闇か光か。

さて、今日は布団に入って読書して寝よ。楽しみな本がたくさん届いている。『掃除婦のための手引書』『子どもの本のもつ力』『禅』『気になる部分』。やりたいことが散漫になっているから、ちょっと計画を立てないと。ひとまずは、なにより「書く」訓練をしなければ。