5月5日

ゴールデンウィーク3日目。こどもの日。8時過ぎに起きる。ドレッシングを作るのに、新タマをおろしていると、泣けてきた。玉ねぎが目に。新タマ1個、にんにく1片、酢100ml、塩小さじ1、オリーブオイル小さじ1をひたすら混ぜて、とろっとしたら、冷蔵庫で冷やす。勝手に料理の師匠、有元葉子さんのレシピを、はっきりとはおぼえていないけど、こんなかんじやったはず。

 

知人からのメールを受信。原田知世の『早春物語』の歌詞が書かれていた。聴いてみる。「逢いたくて 逢いたくて 逢いたくて 逢えない時は せめて風に 姿を変えて あなたのもとへ」沁みる。コーヒーを淹れて、ゆっくりおちついて呼吸をする。さて、本を読むか。『知の編集工学』は、心は気合いを入れつつ、服装はストレッチの効いたジャージ素材で、心は熱く体はリラックスして遊びを心がけて読む。

 

https://youtu.be/uSkYFhjlhO8


休憩がてら、YouTubeを開けると、高橋源一郎さんのラジオ番組のゲストが、菊地成孔さんだったので聞く。ラジオ番組第一回は、植草甚平さんの『ぼくは散歩と雑学がすき』を選び、「僕たちには悪いおじさんが必要なんだ」と紹介する。悪いおじさんを、伊丹十三の『僕のおじさん』から引っ張ってくる。「ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴を開けてくれる存在それがおじさんなんです」と。「男なら泣くなと親が言うところに、人間誰だって悲しいときには泣くんだとか、カーブの投げ方を教えたり、コーヒーを飲ましてくれ、遊び人でやや無責任な感じだけど、本をたくさん読んでいて、おじさんと話した後は、なんだか世界が世界が違った世界に見えるようになっちゃった、これがおじさんです」と。

 

植草甚平さんは、僕たちの世代が最初に知ったおじさんで、遊びを教えてくれたと、高橋さん。「社会が硬くなっているときに、悪いおじさんが必要」で、社会は間違ってはいけないというけど、おじさんは間違ってもいいよって言ってくれるんです。そんなおじさんて、「だいたい未婚もしくは子供なし。すごく知識がある。放浪している。自営業。正しいことは言わない。子供にとって憧れの対象。家を継がない。楽しいことしかしない。不良。外国語に堪能。言葉遣いが乱暴。かっこいい。」と。これには、にやけてしまった。さあ、ここまでが前口上。悪いおじさん、菊地成孔登場。最高っす。

 

昼ごはんにカルボナーラを食べたくなった。ヨーグルティアで温泉卵を作って、卵と粉チーズでカルボナーラ。うまいが、3時間後くらいに腹を壊す。小麦×卵×牛乳は最悪のコンボだ。たまにはいいか。

 

夕方、庭仕事をしていた母の声が聞こえ、引っかかったのが、「世間では」という言葉であった。「世間では」のあと、誰々に、どうみられているのか、が続く。母はそれをもって、わたしってかわいそうやろうと常々口にする。冗談っぽく言うけれど、いろんな話の出口が、さいごにはそこに向かっている。無意識に発する特定の言葉の「世間」から、母は「世間」にどうみられているのかが、考えて行動する上での判断を左右する、地となっているのだろう。それから、おやじが知り合いに、湯水のように湧く裏庭のたけのこを持っていった。

 

時間が生まれると、これまでの(時間のなかったときの)自分と今の自分を比較し、自分とは、について考えるようになるのではないか(なってほしい)。時間が生まれると、余ったものを顔の見える知り合いに譲るようになるのではいか(なってほしい)。ひとびとの想像力が欠けているのも、やさしさが目減りしていたのも、時間を取り戻せさえすれば、自然と回復するのではないか(なってほしい)。本来、やさしさや想像力は、ひとのどこか奥底に刻まれていて、発揮するものなのだとしたら、すばらしい。

 

21時30分ころに20分走る。この時間は誰ともすれ違わない。吉田美奈子を聴きながら、70年代の気分で、小学校の通学路を往復する。家々の明かりは消えているようで薄暗い空に星が輝く。時間が生まれると、早寝になるのかもしれない。帰って、20分風呂に浸かって、ネバヤンを聴きながら、ストレッチ。