4月12日

世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう

 

雨の降る薄暗い日曜日の昼前に目が覚めた。尊敬する先達が呟いた、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の最終章の一文を読む。チャーハンを作り、コーヒーを淹れる。コーヒー豆があと2杯分ほどしか残っていないから仕入れなければと、パソコンを開いて、東京の朝に必ず行くフグレンのネットショップを覗く。1500円以上の購入で100gの豆のおまけ付き、3400円以上で送料無料と書いてある。うまく計算して3700円分の豆を仮想のショッピングカートに入れたが、注文をキャンセルする。

 

小一時間、ShadeのCherry Pieを雨の音をかき消すくらいの音量で流しながら、いつも買っている小さなコーヒー屋へ5ヶ月ぶりに、車で向かった。閉業したコンビニが目に入る。舗装道路の轍を避ける。道中のあらゆる景色が淀んでいるように感じるのは、時代の空気のせいか、降り続く雨のせいだろうか。

 

スーパーは賑わっていた。入ってすぐ右に折れて、角にある小さなコーヒー屋にまっすぐ向かう。いつものおっちゃんが、こんなときに、遠いところからわざわざ、と労ってくれた。顔を合わせるとちょっと暗いような気がし、こちらが労う言葉をかけようかとも思ったが、僕はいつものように振る舞った。おっちゃんの勧めるコーヒー豆を2種類200gずつ購入する。テイクアウトのコーヒーをおまけにつけてくれた。

 

ついでにスーパーで買い物をする。店内を見回すと、8割ほどのひとがマスクをしている。すれ違う人のカゴの中を見ると、買いためてはいないが、賞味期限の長そうなものが多く入っているようだ。ぼくのカゴには、家にまだあるだろう味噌が余計に入っていた。

 

店を出ると、まだ雨が降っていた。おっちゃんに淹れてもらったコーヒーの発酵の香りがたまらない。坂本龍一Alva Notoの『Two』を聴き、舗装道路を揺れながら走っていると、雨の音と相まい、揺れる体はリズムを刻み、思考はぐるぐる回り始める。昨夜読んだ、パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』が現れた。

 

多くの動物がどんどん絶滅していくため、その腸に生息していた細菌は別のどこかへの引っ越しを余儀なくされている。

 

さて、さて、次に顔を出したのも、パオロ・ジョルダーノであった。

 

つまり感染症の流行は考えてみることを僕らに勧めている。隔離の時間はそのよい機会だ。何を考えろって? 僕たちが属しているのが人類という共同体だけではないことについて、そして自分たちが、ひとつの壊れやすくも見事な生態系における、もっとも侵略的な種であることについて、だ。

 

この感じは、中学2年だった2001年に2階の教室のテレビの中で見た貿易センタービルに飛行機が突っ込んだ瞬間や、大学4回生だった2011年2月の昼過ぎに揺れた東北にはじまったシステムの崩壊の片鱗のように、ぼくの価値観を大きく変える転換点となるだろうことを告げているようだ。

 

現代のパラドックスがここにある。現実がますます複雑化していくのに対し、僕らはその複雑さに対してますます無関心になってきているのだ。

 

あるのが当たり前だった生活から、あったものが気づかぬうちになくなってしまった生活に変わった瞬間にしか浮上しない逃してはならない現象を、腹をすかせた鷲のごとく注意深く観察している。当たり前から引き算のできる、なくてはならないもの、元に戻って欲しくないことを考える唯一の機会なのだから。夜に、先達の呟きに感化され、『悲しき熱帯』の最終章を読む。最後にこう締めくくられていた。

 

われわらの作り出したあらゆるものよりも美しい一片の鉱物に見入りながら。百合の花の奥に匂う、われわれの書物よりもさらに学殖豊かな香りのうちに。あるいはまた、ふと心が通い合って、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、違いの赦しの重い瞬きのうちに。