12月19日

16時前の陽光は雲に遮られ、薄暗い冬至前の夕方に、冬を思うも、寒くない空気のせいで、明るさからしか冬だと感じないでいるがごとく、現状に物憂いである。

 

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経済停滞の収入減少に国勢不安定な斜陽の只中であってもテクノロジーの後押しはある。これまで不可能であったことが、すでに容易に低価格で実現できることが多い。そのことは意外でもないが、知られていない。知られてないから、知らない人は、、いいわけばかりいう。これは、収入格差ではない、情報格差である。

 

確かに収入に格差はあるのだろうが、そうなら、ぼくはその格差にうちひしがれて立ち直れないほどに落ち込んでいるはずであるが、そうではない。情報の一面ではおそらく先端情報を摂取し、オールドファッションの教育を放棄して新たな(新しいというよりアプローチの違う)教育で、日々知的瞬発力を鍛えていると、どうも、収入格差という一面にのみ囚われ、思考を握られた人がなんとおおいのだろうかとおもってしまう。

 

どういうことかというと、わからないことをわからないと素直に聞くことができない、そういうときにはわからないことは存在しないこととして扱ってしまう、あるいは、わからないことを想像で埋めてしまう。

 

親世代のおじさんと仕事をしているとそういう発言が多い。どんな仕事に就いているかで人を判断する。乗っている車で人を判断する。幼少の子供の目のごとき思考で、ものごとの図だけしかみれないようになっている。大事なのは、どんな地の上に図が乗っているのかであるなのに。「どうせおれなんて」という口癖に落日を感じる。

 

練習や学習には、実は方向がある。「学ぶ」を「歩く」に見立て、目的地に向かって歩くとする。目的地を北極星としよう。北極星に向かって歩くのに必要なのは、歩き続けること(努力)と北極星に向かうこと(方向)である。では、これを、「学ぶ」に置き換えると、学び続けることとともに、学ぶ方向を、学ぶ前に考えなくては、目的地にたどりつけない。だって、北極星に向かおうとするのに、東に行ってもそりゃたどりつかないでしょ。

 

よく努力をする人を目にするが、そういうひとにかぎって、努力をする方向に注意を欠くことが多いように思う。サッカーでも勉強でも、なんでもやればいいとおもっているようだ。そういうときに、何が大事かっていうと、指南する人である。指南と書くように、南を指すひとは努力の方向を示す。

 

われわれはどこにいくのだろうか。それを知るのはマスター・ヨーダーのような先達である。スターウォーズを見に行かなければ。