12月15日

朝の9時ごろの京都は紅葉がひと段落したせいか穏やでひとはそれほどいない。昨日の試合の疲れをアクティブレストで取り除くために、2時間ほど自転車で市内をうろうろする。京都市内をうろうろするのに、自転車以上にいい乗り物はない。市内の建物や、景色、路地やひとなどあらゆるものに、注意を向けると、少し前とは違った京都が見えた。どうやら、僕の認識が変わったせいで、京都が変わって見えるようになったのだろう。

 

よく、「自分が変われば世界が違って見える」と聞く。まさしくそうなのだが、言葉が大きすぎて、その感覚をうまく掴めない。そんなことを言う奴って夢見てるんとちゃうの、なんて訝しがられ、変わったやつのレッテルを貼られ、結果、話を聞いてくれなくなりがちである。かくゆう僕もそうなのだが、説明するのも億劫なので、親友にしかそれ以降の話はしない。

 

じゃあどうするか。大きい問題や掴めない言葉と出会ったとき、自分がわかる程度の大きさにそれらを言い換えたり、分けたりする。自分が変われば世界が違って見えるというのは、自分の認識を変えることである。知っているか知らないかわからないが、世界は言葉で分けられている。世界が言葉で分けられているのなら、新たな認識とは新たな言葉による分類なのである。つまり、新しい分け方を見つける、習う、学ぶから、これまでといまとで世界が違って見えるようになる。はじめて読んだ本と再読とで印象が変わるように。

 

先週は、ファッションのことを語るMBというひとのYouTubeチャンネルを一通り見ていた。理屈でファッションを語る彼の動画には、ひとは服を見るとき、先端に注目し、たとえば、パンツなら裾に注目するとあった。それを見ていたから、京都では道ゆく人のパンツの裾ばかりみながら、裾の扱い方で、あの人おしゃれだな、なんて眺めていた。

 

そうです、世界を変えるとは、または、認識とは、新たな言葉による分類を獲得することだったのです。それでかヒョッている学校で、いま、稽古しているのは、映画を新たな認識で見るということ。映画をなんとなく見るのではなく、ストーリーを方法によって分解しながら要素を取り出し、新たな認識を得る。おそらく1ヶ月後には、僕の映画を見る目は大きく変わっているのだろう。その目を持って、IMAXスターウォーズの最新作を鑑賞しようと思う。