10月16日

7時に家を出たら、氏神の眠る森の正面から日が射した気温10度の朝。仕事を終えて事務所に向かっていると、正面から西日が差す。日の出と日の入りに向かうカラスのように日々を過ごす。江戸時代の和時計のように冬と夏で昼と夜の長さが変わる尺度は、昼と夜の長さを同じであらわす現代の時計よりも日本人には合っていると思う。明治時代この方、ひとの本能的な行動を、消費優先や欲優先に仕向けてきた世界にチョップするために、いまは修行の毎日である。朝晩の陽光に、冬の始まりを感じながら。

 

師範代の指南を受けて、どうやらぼくは、思考はポエティックで、行動はプラクティカルだとおもった。学校が始まって3日目。想像以上に、濃い時間となりそうである。というよりすでに濃い。絶対不可欠なことをやる以外の時間を稽古に費やさなければ睡眠時間を圧迫される。大事なのは何をやめるかだな。

 

想像以上に、言葉を使うということにフォーカスしなければいけない。どうするのか。まずは、「わたし」を捨てる、あるいは空っぽになる。ついで、型を持ってきてそこに伝えたいことを代入する。そのときに、代入する言葉を伝えたいひとに向けて、言葉を選ぶ。明確なゴールであれば選びやすい。ゴールに向かってどのように伝えるのか(モード、メソッド)も考える。そうしているうちに、消していたはずの「わたし」が、文章に暗に現れてくる。言葉を選んだ「わたし」が選んだ言葉のアフォーダンスに現れる。このこと、師範は「わたし」を捨てて「わたし」を出すといった。

 

師範代のQ、自由の反対は?