10月6日

コンビニのパンとコーヒーに手を出してしまったインスタントな朝。起きぬけの少し開いていた東向きの窓から入ってくる風がすこし冷たい、まだタオルケットの朝。

 

車の窓を開けて、蒲生野の田圃道を半島の帰化人と関係のある古い歴史の道と重ね合わせ、野菜直売所へ向かいながら、折坂悠太とイ・ランの『調律』( https://youtu.be/Mgr_UwY1OZk )を聴ていると、突然「山ねむる山のふもとに海ねむる かなしき春の国を旅ゆく」が思い出された稲穂が刈り取られた秋のクニにて。

 

帰宅して、松岡正剛『3・11を読む』を手に取る。そこには、永井荷風『断腸亭日乗』の「近年、世間一般、奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。」とある。こんな時代、インスタントな消費が主流の時代に、ハイテクと自然の力を理解してじっくりと生きていこうと決意する。

 

土鍋を煮込んでいる時間は待ち時間である一方で、また別次元を孕んでいることを、丸いようで丸くないちぐはぐな土鍋の蓋がカタカタと鳴る音に感じる。猪に冬越しの脂がつきはじめ、冬を連想し、冬支度をそうそうに始める。季節は移ろう。ローリンローリン。季節は回り続ける。

 

ほしいモノを手にいれたとしても欲求が満たされないのは、ウチにあるココロは、ソトにあるモノでは埋められないのに、欲望をむき出しにして消費行動へ走るからなのだろう。自己のソトのモノでも、ポッカリ空いたココロは埋まらないのなら、やはり、ココロを満たすにためにはウチに入っていくしかないのでしょう。

 

食生活を見つめ直し、人体実験をして、もっと軽くバージョンアップしようとおもう。