9月21日

お彼岸の時期にもかかわらず、一輪の彼岸花さえ咲いていない、朝晩がめっぽう冷えるこの頃。彼岸花が畦にないから此岸と彼岸の境がつかない。あの世とこの世は入り交じっているのだろうか。

 

夜長にかこつけて、白州正子さんの本、特に近江や伊賀についての記述を読み直している(近江のことは白州さんに教えてもらっている)。伊賀の箇所には、必ずといっていいほどに土楽さんの話が出てくる。数年前に土楽さんのことを読んで以来、土鍋は土楽さんのものを選んでいる。

 

朝起きて、伊賀焼まつりを訪れる。会場内をブラリと歩き回って、焼き物をとその焼き物を作った人をみながら、物色する。結局、土楽さんのスペースで立ち止まって、土鍋を選ぶ。女将の愛想がとてもいい。ハキハキと関西ちっくなのも、はっきりきっぱり、何でみんなこの会場にコヤンと定価で買うのやろと、勇ましい。土楽さんの黒い土鍋を購入。ぼくは、その店の人格を表している接客をする店にめっぽう弱い。女将の接客には、土楽の土鍋のらしさが練り込まれているのであろう。土鍋は食材を美味しくするための道具である。美味しい料理を作るための道具と向き合う土楽さんに、白州さんは惚れたのであろう。黒い土鍋をみていると吸い込まれそうである。

 

モノはモノなのだけど、そのモノには、その人にとっての物語が引っ付いている。見えないけれど。たとえば、学生時代の思いでの店だとか。よく行く飯屋へ頻繁に行く理由は、コスパや人気だからではなく、その店とぼくとの間の関係が、物語があるからである。その目に見えないけれどたしかに存在する関係のことを霊的だと言えやしないか。

 

昼、ぼく、土鍋を育てるため粥を作る。鉄フライパンで、鹿肉ミンチと生姜と舞茸のオイスターソース炒め。

 

オヤジ、フッ素加工のフライパンを強火で炒めたアルトバイエルンとカップラーメン。

 

母、不在。

 

昼からの練習を終えて、京都でチームの飲み会。その前に、ひさしぶりに船岡温泉へ立ち寄る。温泉とはいいつつも、銭湯なので、大風呂の泡風呂の水圧を身体にぶつけて疲労を打つ。夕方五時過ぎの銭湯は人気が少なく、ゆっくり足を羽を伸ばし、練習でかいた汗を流して、夜のビールの準備を整える。