9月5日

学ぶとは、この先に必要だからではなく、わからないことをわかるようになることであるのだから、すでにわかっていることをやることが学びではなくて、わからないことへ飛び込むことこそが学びなのだ。

 

ぼくは「私淑する」を、坂口恭平さんから学んだ。彼があったことのないひとの本を読んだり友人を、勝手に自分の先生や達人にしていた。ドローイングならピカソ、冒険なら石川直樹という具合に。そのことを読んで、ああ「勝手に師匠」にしたらいいんだとおもった。それが私淑するということだったんだと。いいアイデアだとおもったので、真似させてもらった。

 

ぼくにも、先端情報とライフスタイルと倫理の師匠、仕事の師匠、世界の見方の師匠、日記と私淑の師匠、料理の師匠、編集の師範代がいる。

 

◼️起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。

 

◼️でも、この非合理性のうちにこそメンターの教育的機能は存するのです。自分にとってその意味が未知のものである言葉を「なんだかよくわからない」ままに受け止め、いずれその言葉の意味が理解できるような成熟の段階に自分が到達することを待望する。そのような生成的プロセスに身を投じることができる者だけが「学ぶ」ことができます。ですから、一度学ぶとは何かを知った人間は、それから後はいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができます。というのは、学ぶことの本質は知識や技術にあるのではなく、学び方のうちにあるからです。

 

◼️下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるということがわかっていれば、自分には教養がないということもわかるし、教養を身につけないとまずいということもわかる。

 

内田樹『下流志向』より

 

練習へ向かう途中、誰かに見られていると思って振り返ったら月だった。半月だった。