9月3日

朝起きて家を出た6時30分ごろには、朝露が地面を濡らし、東から登ってくる太陽が視界にはいる。東の鈴鹿山脈には雲がかかり、稲穂は垂れている。コンビニの食料棚にはものがなく、ちゅうしゃじょうはいっぱいで、老若男女が出入りする。

 

考えることについて考えているときに、ぼくの考えたことを。

 

最近分かりやすさが蔓延っている。よく目にする。これは危険だ。分かりやすいということは、余計なものを剥ぎ取っているということである(余計なものと呼んではいるが、その余計なことこそ大事なのである。フラジャイル)。なぜ分かりやすさが必要かというと、複雑なものを解くには時間がかかるからである。現代人はとかく時間がない。(友人が以前働いていたある大手企業では、深夜0時ごろ帰ってきてコンビニで飯を買って寝て、朝7時に家を出るの繰り返しで、土曜日は昼まで寝たらもう一日が過ぎていて、休日にやることは残業代で得たお金で買い物だったという)。わかりやすさも大事だし、複雑なことを複雑なまま考えていくことも大事なのに、わかりやすいことしか考えないのが危険なのだ。それって、自分のわからないことを存在しないものとして扱ってしまうのだからやばいんだよ。だって、学びってわからないことをわかるようになることなのだから。

 

結局のところ、学ぶには、誰かから、教わらなければ学ぶことができない。ぼくが、学ぶことが楽しいと思えるようになったのは、分からないことが目の前に現れたときに、放っておけなかったからだ。放っておくとなんだか気持ち悪いから、調べたり聞くようになった。

 

思い返せば、中学校の頃にちょうどインターネットでYahooを使っていて、リンクをたどる楽しさを知り、現実でもウェブサーフィンをするようにリンクをたどるようになった。僕はなにかを教わるとき無意識に自分をカラッポにして(今は意識的にできる)、気になるひとやこの人には敵わないやと思った人の、一挙手一投足を観察し、あれがよかったとそのひとがいえばその本を読んでいた。

 

なんて仕事を終えて17時前には家へ変える。ひとっぷろあびて、nujabesを聞きながら、ゆっくりストレッチして、瞑想しながら、身体が健康で、時間があれば、わりと楽しく生きていけるよなとおもう。いろんなことを行う初期投資のハードルはテクノロジーの進化とともにグッと下がったのだから、パソコンは20万ありゃ120コマの動画を編集できて音楽を作れるし、アマゾンプライムならちょっとした年会費を払うだけで、黒澤明や小津安二郎を研究でき、田舎の本屋においていない本を取り寄せることだってできる。この時代、ハードを揃えるよりも、欲望に絡まれたソフトウェアをどうやって切り替えられるかのほうが、難しく、大切であろう。

 

学ぶことに関して、いまぼくが大切にしているのは、我が身をカラッポにし、未知へ飛び込むことである。