9月2日

久しぶりに車のラジオをつけたら、キャロル・キングのYou make me feel like a natural womenが流れる。久しくラジオを聴いていない。普段はラジオを聴くなら、ピーターバラカンか山下達郎の番組か、インターネットラジオのNST radioを聞く。日本のラジオはバラエティー番組だ。おしゃべりが過ぎるし、広告が多いし、4つうちはほとんど流れないし、DJといえばMCと同義だし、ダサいし。

 

市中を車で走っていると、空き家をよく見かけるようになった。中小企業が入っていた建物にFor Rentの看板をよく見る。店頭の求人広告もよく見る。

 

無知は独善だと為末さん。「無知は独善だと私は思う。そして独善状態の時、人は自分が独善であるなんて考えもしない。」と。

 

仕事を終えて、19時過ぎに帰ってくる親父は、帰ってきてすぐにテレビのスイッチを入れ、テレビを見ながら夕食を食べて、食べ終わった後もテレビを見て、寝るだけである。21時ごろに仕事を終えて帰ってくるおかんは、帰ってくるなり自分だけに不満がたまっているといち早く不満の宣言をし、あらゆる小さなことに自分の不満を証明するための根拠を求める。学校を卒業してから、子供が離れてから、大人は一切勉強してこなかったツケをここで食らう。

 

以前に親父になんで戦争ってあかんのと聞いたら、法律で決まっているから空かんという。じゃあ、法律で決まっていなかったら、いいの?と聞くと、いいと。僕は落胆した。じゃあ、前まではうまくいっていたけど、いまどう考えたってうまくいっていないことで、これまでとは全く違ったやり方で他の組織がうまくやっていたとしても、そのルールが適用する組織にいるならその決められたルールを守るの?または、昨日ダメだったルールが、改正され今日オーケーとなったら、あなたはその一瞬で切り替えられるの?と。

 

悪とすることの根拠が、法律でそう決められているからに一存している場合はかなりやばい、と。

 

「法的に許されるかという問いと、あなたの価値観では許せるのかという問いは違う。もし法的に許される範囲と自分の価値観が完全に一致している人がいるのであれば、それは個人の価値観を全体に委ねてしまった人になる。私にはこれがハンナアレンとの言うところの”凡庸の悪”に見える。アイヒマンは淡々と「命令だったからやりました。私は従っただけです」と繰り返した。」(為末大さん「法に価値観を委ねる人」 https://note.mu/daitamesue/n/n53650dec9395 )

 

氾濫中の情報にはご注意ください。ある発言の図に乗っている図に踊らされてはいけません。その図の背景の地を見つめなくてはいけません。そのためには、「そもそも」を見つめ、多視点でその現象を捉えなくてはいけません。大好きな一冊である松岡正剛『感ビジネス』より

 

大衆心理が世の中のすべての決定権をもつということになると、われわれの歴史文化にひそんできたアーキタイプが何かということは、ほぼ看過されていく。これこそが古代ローマ帝国以来の「パンとサーカス」現象なのである。