9月1日

9月に入りました。気付けば、朝採れ野菜の直売所には、スダチ、ミョウガ、なし、ぶどう、サツマイモが並んでいる。昼間の陽気に汗ばみつつ、着々と季節は移ろい、稲穂は垂れて、朝夕の過ごしやすさに、冬支度をせがまれる。毎年の事ながら、これから半年は忙しくて楽しくなる。友人の来訪の予定とその準備をゆっくりと着実に行う計画を立てるだけで、さながら旅行気分になるから、いまでも毎日が楽しいのに、来月からはじまる学校の日々のための読書をするだけで、ワクワクである。また、世の合法の身体に害のある娯楽(タバコ、酒、小麦粉、砂糖)に取って代わる、世の合法の身体に良い娯楽を試すだけで、ドキドキである。ビバ、人体実験。

 

昼過ぎから、久保田麻琴と夕焼け楽団を聴きながら、いつ買ったか忘れた買ったきり一度も読んでいなかった内田繁『インテリアと日本人』を読んでいる。読書にもタイミングや旬はある。夏前に(祇園祭の準備が行われていたのを思い出した)関東の友人と京都で会って、その帰りに四条通りのジュンク堂でたまたま手に取った内田樹さんの著書をつまみ読んで、つづいて『辺境』『下流思考』を読んで、これまで感じていたことと、断片としてとらえていた言葉が繋がり、それをこの日記に記していたら(内田樹さんの著書を手すりにしてぼくの経験や感覚を言葉としてとらえて記したものが)、この著書に記されていた。驚いた。ばっちりピントがあった。いい読後感。

 

以下メモ書きである。

・日本の建築は仮設性によっていまを感じる

・いまを感じるために、仕舞う、用意するを繰り返す

・そのためには、空間はカラッポでないといけない

・カラッポであるから、そこを仕立てることができる

・その仕立てるための道具やその配置、儀礼の順序が装置として起動する

 

カラッポと仮設性というアイデアを室内だけではなく、人の考え方(ソフトウェア)や文章や健康法にも見立てて行ったら面白くなりそうだ。この息苦しい監視社会のなかで、一時のリラックスできる瞬間を創造するのだ。Short Escape from World of Meaning.

 

さあ9月は始まったばかり。