8月30日

「誰でも持つ最大の資産は、時間です。しかし、ほとんどの方は1000円を無駄に使いませんが、1時間は無駄に使ってしまいます。実に不思議です。時間は、この世で全員が平等に与えられたもので、一方、貯めることもできなければ、取り返すこともできません。ですので、なにかを成し遂げる際に必要なのは、<時間>であり、<お金>ではありません。」

 

「ビジネスで使えるほどの英会話を習得すること。貯金を、もっと貯めること。さらに、どこでも食べていける技能を習得すること。そして、心身を驚くほどに健康に保つこと。これらを並行して行う必要があるでしょう。」

 

夕方に師匠の講話を読む。

 

ここ最近の読書や映画や師匠の指図などによって、場に対する、これまでの認識といまの認識に差異が生じた。見えていなかったものが、見えるようになったような感覚だ。同じ場所にいくつかの次元が存在していることの感覚を得た。意味わかんねえよ、とおもわれるかもしれないが。

 

そのための、条件をあげると、その空間は絶えず清潔にしておかなくてはいけないこと(ここでの清潔というのは、void 、カラッポ、虚)。空間をカラッポにして置くことによって、そこには何かを入れ、配置することができる。空っぽの空間に何かを移す。例えば、正月なら注連縄や門松を配置することによって、家という空間に正月という次元が生まれる。

 

記憶があいまいだが、ぼくが、小学生の頃だった、会ったことのない曾祖父の葬式が、我が家で執り行われた(祖父は田舎の長男だった)。家の仏間が提灯や花や供え物でいっぱいだった。座布団が敷かれ、木魚を叩きながら、浄土宗の念仏を唱える寺のおっさん。黒い礼服を着て参拝に参った人。台所では、近所のおばさんたちが白いエプロンを着ている。子供のぼくはそこらへんを駆け回って遊んでいたが、その時の記憶は今も脳裏に焼き付いている。これまで、日常だった空間が装置を配置することによって別の空間に仕立てられたのだった。

 

今日では儀礼的なもののほとんどは専門分化されていて、機能や場所は一対のものとしてくっついていて運営されているようにおもう。(だからぼくは結婚式に行くのが好きではない。もっと儀礼的なものに伺いたいものだ。)そうなったことで、薄められたのは精神性ではないだろうか。空間が別次元を有するとき、そのエージェントとなりうるのは、ものであり、そのものの配置であり、順序である。人はものの持つ見えないメタ情報を、堆積された文化の流れの中から感じ取り、霊的な精神的な空間として捉えるのではないか。暖簾を潜ればそこから先は別の空間だと体は認識するのだ。(仮説)そう考えると、これから、作りたい、目指すべき空間というのは、自ずと見えてきたように思う。監視社会の中で、いっときでもホット一息つける空間を作りたいのである。

 

ひとまず、部屋の空間をもので埋めて息苦しくしないこと。必要のないものは捨て、ほとんどのものはモバイルなもの(持ち運びが容易なもの)にすることで、部屋を空っぽにでき、同じ場所を多次元に仕立てることができる。

 

例えば、畳の部屋があるとする。普段は何もない。その部屋は食事の時には、膳が用意され、皿や茶碗に料理が盛られる。食事が終わると全てが片付けられ、その空間には何もなくなっている。少しして、寝る時間になれば、布団を持ってくる。そうすると、先程までの食事の次元が、一瞬にして睡眠の次元へと切り替わるのである。ものは、エージェントであり、機能であったのだ。つまり、場を清めるというのは、空っぽにすることである。禊ぐというのもそういうことではないのか。黒澤明の『姿三四郎』で娘さんが無心で祈るシーンがある。無心とは、我を空っぽにすることなのだろう。

 

思えば、日本では部屋が小さいという課題をこうして解決してきたのだろう。大きな家を持つという理想というのは、マーケティングに毒された消費社会の策略だったのだろう。大きな家に広い部屋では立派な家具を配置する。精神性を失った人が餌食にされた。

 

夜、体のケアで整体へと向かう。夜雨が激しく降りつける中、大城美佐子さんの三線を聴きながら、雨に冷やされた晩夏の空気を、窓を開けて、車の中へ取り込み、夜毎に秋へ向かう季節の移ろいを寂び懐かしむ。