7月1日

7月です。

 

まずは、スーザン・ソンタグ『反解釈』にある「《キャンプ》についてのノート」より

 

「感覚を−とりわけ生きていて力強い感覚を−言葉でからめ取るためには、われわれは断定を避け、柔軟に振舞わなければならない。このとらえどころのない感覚をいくらかでも掴むには、一貫した認識の筋道らしいものをもった論文よりも、メモのかたちによるほうがふさわしく思われた。キャンプについてもっともらしく論文を書くなどというのは、妙なものだ。そんなことをすれば、ごく出来の悪いキャンプの実例を自ら提供することになりかねない。」

 

仲間に遅れること1ヶ月。やっと京都で『ニューヨーク公共図書館』が上映されたので、雨で休みだったのもあいまって、京都シネマへ。初めて行く(来月は『東京裁判』へ)。以下、読後感ならぬ読観感。

 

・情報と教育のアクセス →Whole Earth Catalogを想起した

・写真の分類を著者名作品名の五十音順だけではなく、Dog in motionのようにテーマ別で探せるようにしアクセシビリティを引き上げた

・図書館は本の置き場ではない。知識を得る場所であり。本屋が本を置く場所だという認識は時代遅れだ。

・エルビス・コステロ、70年代とひとくくりにいったとしても、歌一つ一つの背景を見なければ、本当になにがいいたいのかわからないでしょ。

・予算の振り分けの会議中のこと、10年後の利用者のために、人気の新刊小説より、貴重資料を購入したいと言った男性の言葉が響いた。

・図書館のトップが、同じ仕事をしているとして白人男性が1ドルを稼ぐと、女性は0.77ドル、黒人女性は0.66ドルしかかせげないと言った(数字はうろ覚え)。

・また、教科書の記述のごまかしについても言及していた。そんなのどうでもいいというのはだめで、自分の世代では間に合わなかったとしても、次の世代にそのことを伝えるだけで、世界は変わると。そして、そのためには記録が必要でこの図書館はそれらを保持していると。やっぱり教育だな。

 

どんな物事も多面的であり、どの角度から対象物を見るかによって、まったく異なります。世の中で「事実」といわれていることの大半は、多くの人たちが見ている角度からの見え方にすぎません。by師匠

 

7月だ、夏だ、祭りの季節だ、わっしょい!