7月7日

七夕。

 

松岡正剛『わたしが情報について語るなら』読了。「あるもの」と「あるもの」を分ける線はいつも曖昧で、あてにならない。だからこそ、そのあいだ=関係を動かして、時代や状況に即して理解したい。また、昨日ダメでも、今日OKな事象だってありうるわけで、そうなった場合に、すぐに動けるように、あるいはフライングするように、荷物を少なくし、倫理を整えて、いつでも飛び立てる用意をする。

 

『不思議の国のアリス』のおかしな茶会で、三月ウサギは、「手に入れたものが好きは、好きなものを手に入れると同じと言うようなものだね」と言った。

 

読書ノートを手書き(ボールペン・ジェットストリーム)でB5の6mm横罫ノートにつけている。この数年はメモをデジタルデバイスにごちゃ混ぜにしてつけていたが、読書メモだけはノートに付けはじめた。手書きとキーボード打感は全く違うし、思考スピードも全く違うし、メモを書いているときに使っている頭の領域も違うようにおもう。気持ちいいと言うより、変な感じ。

 

スーザン・ソンタグ『反解釈』を読む。「芸術とは呪文であり魔術である」からはじまり、「解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロティックス)を必要としている。」で結ばれる。その魔術とは、われわれの神経を不安にする力であり、それによって、もっと直線的に経験するようになることである。解釈の要求から完全に解放してくれる直接性である。その魔術は、内容を脇において、形式への詳しい注目と徹底的な描写をおこなうことである。その魔術は、透明である。透明とは、モノ自体の、つまりものがまさにそのものであるということの、輝きと艶を経験することである。作品がなにを意味しているかを探すことからの自己の解放こそが魔術であり、反解釈である。

 

練習の帰り道、西の澄んだ空にくっきり三日月。夏は夜という。どんな夏の夜がいいかと聞かれれば、祭りの後のようなメロウに時が流れるバイブス。