6月29日

スマリヤン『タオは笑っている』を読みながら、1時間前に飲んだメラトニンが効いてきたからか、アクビがではじめた。昨夜の記憶はそこまでで、今朝は気持ちよく起きた。よく眠れているときって、眠っている時と目が覚めた時の感覚にズレがある。10時ごろに目が覚めたとき、外で遊ぶ近所の子供達の声が英語に聞こえたり、夕方なら「えっ」もう朝?と錯覚を起こしたりする。なぜかはわからない。

 

寝ぼけてはいないけれど、自室の床に転がっていた最近お気に入りのMeeのイヤフォンを踏んでしまった。ショックを引きずりながら、速攻即効性のボンドで引っ付ける。なんとか直った。なにかが起こったときに、自分に生まれる感情をしっかりと見つめる。そうすると、なにに対して怒り、悲しみ、喜び、好意を示すのかが見える。それを感情と言うのなら、わたしは感情を大切にしたい。かなりショックだけど、失くして初めて気づく大切さはつらいけど、目をそらさずに対話したい。

 

G20のため厳重警戒の大阪で試合。フットサル、あるはスポーツをしていると、思考を即座に行動に移さなければいけない。フットサルやサッカーにおける行動原理はざっくりいうと、姿勢を整える(顔を上げる)→首を振る(周囲を見渡す)→状況を認知する(自分がいる場所、味方と敵の位置などなど)→状況から判断する(決意、プレーの決定)→実際のプレー反映させるの繰り返しである。

 

ということはだ、顔を上げて状況を見渡したときの判断は、経験的なものである。練習でこういうときはこうするという理屈に基づいた型を用意しておいたものや、これまでの経験から導き出される。それを瞬時に変わる状況の中で、出し入れを繰り返す。状況判断とはほとんどの場合咄嗟に生まれるクリエイティブではなく、その瞬間までに用意された型の組み合わせ組み換えなのだ。

 

昨日より千夜千冊1566夜米盛裕二『アブダクション』に、

 

ふだん、われわれの思考には直観的なものがはたらいているだろうと思われています。ピンとくるとか、ハッとわかったとか、そういうことが実際にもよくおこる。そうですね。たしかに誰だって、説明がつかない発想のようなものが突如としてパッと思い浮かんだりするものです。これはパースがいうところの「新しいアイディア(観念)」です。  しかしピンとくるとか、ハッとわかるって、どういうことなのか。それが容易におこるなら、いつもそうなってほしいものですが、ところが、そういうことは残念ながらときどきしかやってこない。しょっちゅうはおこらない。ということは、ここにはなんらかの「しくみ」があるはずなのです。ストッパーがあったり、抜け道(バイパス)があるのかもしれない。  そのあたりを見抜いて、パースは「非仲介的な直観などありえない」と言ってのけました。そう、断言したのです。  これは何を断言したのか。直観(intution)は何かを媒介にしている、直観は媒介的なんだということです。直観でさえ編集的なプロセスをもっているということです。今夜はまずはこのことを念頭においていただきたい。

とある。

 

まさしくそうだ。それならやはり日々の鍛錬のなかに咄嗟の対応や、直感があるのだ。