6月27日

雨が降りそうで降らない。

 

梅雨の時季はいつもそうだが、ぼくはこの時期にいちばん凹む。やりたいことがあってもソファから立ち上がれない。それはそういうもので、そういう時期なのだ。それが梅雨をあけると、一気に、夏だと察知したセミの鳴き声のごとく、動き出すのも分かっている。だからあまり心配もしていないのだけど。

 

スマリヤン『タオは遊んでいる』の読書メモ:

一時的な意味社会からの解脱

modern short wscape from the world of meanings

意味社会との両立

デジタルは意味と一対

余白とは何か→意味を求めない時間ではないだろうか

芸術をみるとは意味を求めないことではないか←反解釈

音に合わせて踊るのは意味を求めていないのではないか

意味を求めるからしんどいのではないか

下手なマインドフルネス本を読むくらいなら、老子を読め!

 

昼過ぎから、雨が降りはじめる。早々に仕事を撤退して、家でカレーを作る。カレーを作りながら、スマリヤン『タオは遊んでいる』を読む。言葉は世界を限定する。形作る。経験は帰納的だ。千夜千冊1566夜、米盛裕二『アブダクション』に、「一方、帰納法は観察データに“もとづいて”一般化をするためのものです。たとえば「人は死ぬ」という仮説を言明するために、「ソクラテスは死んだ、真田幸村は死んだ、リンカーンは死んだ、おじいさんも死んだ、隣りの姉さんも死んだ」というような事例をどんどんあげて、そうした個々の事例の集合にもとづいて「人はみんな死ぬ」という結論を導く。そういうふうに、いろいろなものに“もとづく”という方法です。」とある。

 

経験や言葉に、帰納法から漏れた異質があることを想定しながら、日々を過ごすのが、空白を作るコツじゃないのか。