5月15日

井上ひさし『この人から受け継ぐもの』っていい本やよなあとしみじみ。こうもあたまに残るのは、井上ひさしさんが「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」のヒトだからなのだろう。

 

通勤の道中の車内ではいろいろ考えが巡る。今日は、「たくさんのわたし」と「独自の物差しを作る」だった。

 

我々は「世の中あるいは社会」という次元、「会社」という次元で生きていると思い込みすぎている。考え方を変え、見方を変えてみると、そこには、無数の見えていなかっただけでそこにあった世界が広がっていることに気がつく。その気づきを学習と呼びたい。そうしてはじめて、それ以外にも評価軸を自分で作ることができることに気づく。

 

はなし言葉が編纂的になりすぎていると感じている。編纂的とは、辞書的である。言葉と意味が一対であって、それ以上の膨らみや余白がないとおもう。言葉と意味は対をなしているのだけど、そう思い込みすぎてはいけなくて、その関係にはゆらぎがあって、曖昧であって、遊びがあり、メタファーに富む。りんごといえば、果物のりんごだけではなく、赤い果実、ジョブズの欠けたりんご、アダムとイブ、白雪姫の毒リンゴ、青森県、幼子のほっぺたなどがある。10秒考えるだけで、これくらいのイメージがでてくる。

 

言葉と意味だけではない。「たくさんのわたし」もおなじことが言える。言葉が遊びをなくすにつれ、人生にゆとりがなくなる。言葉の定義ばかり求めてくる合理的なバカやろうや、あれやったんだからあれしてくれってだけの人間関係からは逃れたいし、堅く遊びのない人生には気をつけたい。

 

と思ってたら、京都清華大学のウスビ・サコさんが、祇園の街で打ち水の範囲と地域の人間関係の調査のことを思い出す。自分の家の前だけでなくよその家のぶんまでやっているひとの近所関係はいいというものである。( https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/okan07 )

 

近隣のひとの家の玄関までついでに打ち水をするように言葉を使いたいし、そういうヒトを目指したいし、そういう一肌脱ぐ仕事をやりたいし、遊びのある生活を送りたいものだ。

 

帰宅すると。兄から送られてきた百合の花の香りが部屋中に漂っている。んん、いい!