4月20日

いい天気だ。買い物に行きながら、いい天気だなと思っていたら、ついつい道草してしまう。いつのまにか、鈴鹿の山を越え反対側へ出て行ってしまった。ああいい天気だ。

 

寺田寅彦が「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」と歌う。

 

以前に書いたけれど、文字の流れる電光掲示板を想像されたい。ひとつひとつの文字だけでは意味の広がりは少ない(表意文字なのでないわけではない。)。それを連続で読んでいく。「ふ」「る」「さ」「と」と。すると、生まれ育った情景がふわっと動き出す。

 

「ふ」は今日の日記で、「る」は明日の日記で、「さ」は明後日の日記である。ある一日の出来事だけで、そのひとを精査するなんてばかばかしい。

 

文章には、文脈があり、文意があり、文体があるように、出来事にもそのようなものがある。ある日の日記は集まって、文脈となり、文意をなし、文体の衣を着る。文章は衣装である。「週末ハワイに行ってきました」だけで「いいね」するステレオタイプだけを抽出して盛り立て消費する社会にはいささかなじめそうもない。だから、寺尾紗穂さんのアティチュードが好きだ。文章を掬いながら読んでいるうちに、文脈や、文意や、文体から、衣装を読み取っている。

 

昨日いただいた煤竹を洗う。仕事先の集落にあるおそらく明治時代に建てられたであろう茅葺のお宅が解体されていたので、さっそく拝見させていただいた。この煤竹、茅葺の囲炉裏で炙られ100年かけて燻され乾燥し変色した。いまじゃ、現役の茅葺で囲炉裏を作っているひとなんてほとんどいないだろうから、現実的にはほとんど手に入らないものなのだ。

 

ほしいものを手に入れたかったり、夢を叶えるためには、その現場の近くに体を運ぶことだ。自分のが考えうる近くまで体を持って行く。もし無理ならその現場に一番精通してそうな友人に話すことだ。こうして煤竹をいただいたのだから。

 

ここ数週間はたべるものを習慣化していること(平日の朝と昼は3日以上の発芽時発酵玄米)以外、なにも考えずに食べている。頭ではあまり感じないが、どうやら腸は正直で調子があまりよくない。何が悪いかって、便の調子が・・・。独善的に言って、食べ物が悪い。これも独善的に個人のほとんどの問題は食べ物を改善すれば治るとおもっている。改善するためには、自分にとって正しいものを食べればいい、独善的に言って。正しいものなんて数万円で簡単に調べられる。頭で体の調子を判断しているとできごとを都合よく解釈しようとするから(たとえば、どこかへ行く道中の信号が全部青だったら、ラッキーと、たまたまなのにおもってしまう)、やはり体に聞くべきだ。どう考えたって体調不良なのに、「元気です!」と答えるのはおかしい(今の社会ってそんな感じなんじゃない)。

 

日常の食べ物も適度に制限しないと、体がもたない。3食コンビニなんていまは楽かもしれないが、体はダメージを受ける。先のことを見据えて。