4月19日

言葉は旗である。言葉によって世界を分けている。目印である。「上野発の夜行列車 降りたときから」と歌いはじめたら、世界から上野が切り離される。

 

20歳くらい歳の離れたひとの「教えること」についての話をなにもいわず聞いていた。「いままで型にはめすぎていた。あれやれこれやれじゃあ、指示待ちになる。だから自分で考えて行動できるように教えなければいけない。そのためには、自由にやらせるのがいい。」と。

 

ぼくも少し前までそう思っていたが、いまは違う。

 

五十音を覚えるときに歌うイロハ歌は、「いろはにほへと」とはじまる。これに漢字を当てはめると、「色は匂へど 散りぬるを」となる。ここで、千夜千冊514夜『私の國語教室』にお出ましいただきたい。

 

「色は匂へど散りぬるを」では、色即是空から諸行無常までが六曲屏風の折りごとに見へてくるし、「わが世たれぞ常ならむ」からは大原三寂や誰が袖屏風がすぐ浮かぶ。「有為の奥山けふこえて」はただちに数十首の和歌とともに蝉丸も花札もやつてくる。最後の「浅き夢みしゑひもせず」はまさに百代の過客としての芭蕉をさへおもふ。  

 

 かうした「いろは歌」から旧仮名遣ひを奪つたら、何が残るであらうか。何も残らない。「匂」が「にほふ」であつて、「ゑひもせず」が「酔ひもせず」であることが重要なのである。

 

さて、ぼくが思うのは、考える思考素がないのに、考えることなんてできないということだ。物事の見方には、地と図があって、地は図によって意味が変わる。たとえば、「暑い」がある。夏に暑いというと、日差しが強かったり、クーラーが壊れて温度の下がらない部屋なのかもしれない。じゃあ冬に暑いというと、部屋の暖房が効きすぎて暑いのかもしれないし、着込みすぎて暑いのかもしれない。同じ暑いでも、夏と冬とではまったく違うのだ。時事問題や社会や歴史やひとや、なんでも見るものには、図をちゃんと見てから、地を見ないと勝手な思いこみで済ませてしまうことになりかねない。

 

そういうわけで、31歳。出遊。未知の渦中へ飛び込んで、旗を立てる。未知と忙しさと楽しさの渦中に。