4月16日

本日の仕事は、山道の草刈り、鹿の罠の設置。桜、ぬるい微風、とてもいい天気。山と田のあいだの沢で蛙が鳴きいている。春仕事がちゃくちゃくとすすんでおります。

 

「曲がらない木の柄の選び方はまっすぐな木筋を見て買え」と師匠が言った。秋岡芳夫さんを思い出す。で、道具の話をしていたら、師匠が、「道具より頭だ」と言った。

 

問題に対しての解決する方法はいくつかある。ひとつは専門性によって解決する。もうひとつは代用によって解決する。くぎを打つのに、叩くものがなければ、前者はハンマーを買ってくる。後者は、そこらへんにある叩けるもので代用する。師匠は、明らかに後者だ。ないからって嘆くのでも、なにかを付け足すのでもなく、ないからこそ頭を働かす。空白をアイデアで解決する。

 

「『ブリコラージュ』、手持ちの札(もちえる知識、技術、才能、要素な~んでも)使って編み出すことに貪欲に向かうことですね。」と師範代。

 

「構造主義を提案したレヴィ・ストロースは『悲しき熱帯』や『野生の思考』で、「西洋の知からいったん離れなさい」「なぜなら西洋的な思考には修繕能力(ブリコラージュの能力、すなわち編集能力)がないからだ」と校長。

 

さらに、「知識は十九世紀までのぶんで、もう充分にあるだろう。それを組み替え、組み立てなおしていくしかないではないか。そう、言った。これを現代哲学では「ディスコントラクション」(脱構築)ともいいますが、私からすると、つまり「編集にとりかかれ」ということです」と。

 

夜に、為末大さんの『無知独善』( https://note.mu/daitamesue/n/n342827023248 )を読む。「独善という状態は自分の正しさを疑わず、一方向からしか物事を見られていないのだと思う。つまり視点の固定化だ。」

 

振り返ってみると、たしかに、ぼくを独善の外に連れ出してくれたのは、師匠だった。問題を解決するのに方法がひとつではないこと、なにをしたっていいこと、決めるのは自分だということ、真実はひとつかもしれないけれどその見方は多面的であることを学んだ。