4月14日

試合で大阪へ向かう道中、思考がぐるぐる。

 

最近の車中ではKhruangbinを聞いていることがおおい。音楽はライブで聞くのが一番だと思っているけれど、好きなアーティストがライブを行うのと、僕の日常とのタイミングや場所とが巡り会うチャンスはそうない。特に海外アーティストの場合は特に。

 

だから最近は、サブスクで聞いている。ハードはスマホがあればいいため、ハードルは低いし、どこでも好きな音楽を聞くことができる。普段はSpotifyメインなのだけど、最近はサンクラで聴きはじめた。サンクラにはマッシュアップやリミックスやDJセットが多くある。ジャン・コクトーが「オリジナリティを誇ることこそ、あやしい」というように、現行の音楽のアレンジが気持ちいい。(LPレコードとええスピーカーを設置したいから、スピーカーの自作を企んでいる。)

 

今年は日本のトポスに体を運んで行こうと企んでいる。その時期そのタイミングでしか開かれないダンスパーティーは全国各地である。気持ちいい音楽を感じながら踊るクラブのダンスではなく、見えない霊と手を繋いで月に照らされながら踊るムーンライトフェスティバル。民謡の言霊が醸し出す雰囲気と、下駄と和太鼓のツービートのループミュージックで、朝方まで踊り明かすダンスフェスティバル、盆踊り。そう、今年は盆踊りハンターになりたい。ダンスはうまく踊れないけれど。

 

今月のBRUTUS特集『花と花束』をおもわず買ってしまった。日常がエンターテイメントなんて、学校の先生も、親も誰も教えてくれない。自分で気づくしかない。アンテナのチャンネルを合わせ、細部に目をこらすと見えていなかったものが見えるようになる。その気づきには、本を読むかいい師匠を見つけるのが効果的である。

 

「差異と言うのは簡単なところ、<アフォーダンス>として、相手(があることを)方を認識して、自らがそこへアフォードしていく。持とうとするコップに合わせて、手がコップ形状に合わせた動きをすることに見る手の姿が自分自身とも言えますよね。この意識や行動の転換を、相転移と学校では名づけてます。つまりインタースコアですね!!!だからこそ、差異を差異のまま終わらせない、方法は目的以上に重要なのかもしれません。」と師範代の指南があった。

 

「問題は<主題>にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける<あいだ>にあって、その<あいだ>を見出す<方法>こそが大事になっているはずなのだ。」

 

「私は20世紀までは<主題>を求めあう時代だったけれど、21世紀はそれらをいかして新たな方法を発見する時代であってほしいと思ったからです。この方法とはスキルとかノウハウとはかぎりません。歴史の掴まえ方、ものの見方、現象や事態ついての考え方、メディアや商品に対する接し方、そのほかさまざまな方法に通じ、これらを自在に束ねていけるようにすること、それが<方法の学校>の方法の意味なのです。」 と校長が言った。


言葉遣いについて。師範代や師範や校長の使う言葉遣いは、これまでの国語の先生と異なっていて、自分の考えていることを言葉に変換するときに、その言葉の微細を感じ挑んでいる。こちら側がそれを読みとるには、言葉に入っていかなければいけない。レベルを上げなければいけない。言葉は世界を分けているのだから、その機微を知りたければ、こちらが辞書を引かなくてはいけない。 

 

昨日のブラジリアンBBQで肉を食べすぎたせいか体調不良である。体調不良のぼくの物差しは便(汚い話ではない)で計っているから、わりと正確である。心に影響がでないように、今週は穏やかに暮らそう。アタラクシアを目指して、逸れながら。